五月のパロアルトは、光があまりに潔い。 窓を開け、懐かしい財津和夫さんのアルバムを流しながら、ふと手が止まった。
「いろんな色を混ぜ合わせると だんだん黒くなるものです」 (I need you and YOU)
そのフレーズに差し掛かった瞬間、ある絵を思い出した。
記憶のスキャン、こぼれ落ちた色
先月まで日本で行っていた実家整理。 幼稚園で通っていた絵画教室の画用紙の束を、母が守ってくれたことに感謝しながら、いくつかデジタルに収めていった。 そこには、子供らしい鮮やかな色で描かれた絵が並んでいる。
その作業中には、一度も思い出さなかった記憶がある。 それは、私が、ある自由画のクラスで、描いたあの一枚のことだ。
なぜ、あんなことを思いついたのだろう。
絵の具箱にある全色を、少量、順番に、丁寧に、混ぜ合わせていく。
途中で目が覚めるようなセルリアンブルーや、弾けるブライトオレンジになる瞬間も覚えている。「ここでやめておけば、綺麗な色で絵が描ける」 そんな大人のような計算は、当時の私には微塵もなかった。
ただ、「全部混ぜたら、何色になるんだろう?」という、純粋な好奇心。 一色足すごとに、パレットの上で色は目まぐるしく変化した。 だから、私は筆を止めなかった。
結果として現れたのは、深緑。 よく言えばマリモのような、悪く言えば、絶対に落ちたくない澱んだ池の水の色。 私はその「最終地点の色」で、人間も花も動物も、すべて同じ色の絵を描いた。
あの時、私は何を確認したかったのか。
単純に、全部混ぜた先にある色?
少量の色をたすことで、今までと全く違う色になる、その過程を見続けたかったのか。
それとも、最後まで進むことでしか得られない、それなりの「最終形」だったのか。
終わりのない混色
スキャンデータの中には、あの深緑の絵は残っていなかった。
母も、あるいは私自身も、無意識に「残さないこと」を選んだのかもしれない。
けれど、記録には残らなかったその色が、今の私の思考の底流に、静かな存在感を持っている。
五月の光の中で
途中でやめておけば、違う絵になったはずだ、という確信。
でも、最後までやらなければ、この色は見られなかった、という事実。
正解があるわけでもないし、探してもいない。
ただ、眩い日差しの下、好きな歌の一節から、あの深い密度の苔色の記憶にアクセスしている自分が、なんだか可笑しい。





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