月曜日は、証明書類の申請のためにサンフランシスコの領事館へ向かいました。せっかく街へ出るのだから、偶然知ったアジア美術館で開催中の塩田千春さんの展示に立ち寄ることにしたのです。
彼女は糸を使った大きなインスタレーションで知られていて、その作品群は私も知っていました。それ以外は、彼女についての知識はほぼゼロでした。
会場では、まず、アーティスト自身が生い立ちから主要作品について語る、30分近くのビデオを観ました。絵が好きで無邪気に笑っていた少女が、画家を目指して美大へ進むものの、途中で絵が描けなくなってしまう。その行き詰まりの中で向かった留学先のオーストラリアで、彼女は「絵の中に自分が入る夢」を見ます。
そこから生まれたのが、全身に赤いエナメルペイントを浴び、白いシーツを纏って自らが動くことで作った作品『Becoming Painting(絵になること)』(1994年)でした。塗料で皮膚が焼けるような激しい痛みを感じながらも、同時に言いようのない開放感を得たと、彼女は淡々と語っていました。3年もの間、絵が描けずに豆の皮を拾って貼り付けた作品を作ったりしながら、彼女の表現は平面から立体、そしてパフォーマンスアートへと変化を遂げていきました。
日本で師事した先生の戦争体験をもとにした表現を通じて、彼女は誕生と死、その間にある「生活・命」について深く思いを馳せるようになります。その後、ドイツへ渡って制作されたのが 『Congregation(集積)』(1994年) です。
彼女は近くの屠殺場へバックパックを抱えて向かい、牛の顎の骨を譲り受け、アトリエで自ら肉を削いでそれらを並べました。既に命を失っているはずなのに、圧倒的な存在感を放つ牛の顎骨。その真ん中には「生」を象徴する卵が並べられていました。また別のバージョンでは、真ん中に泥の池を作り、彼女自身がその中に入ることで、生を象徴する存在として自分自身を表現していました。
華奢な日本人学生が骨を求めてやってきた時、屠殺場の人たちは一体どう思ったのでしょう。アトリエで肉を剥ぐ彼女の姿を想像して、「まだ見たことのない死」を表現することに費やされた凄まじいほどの生のエネルギーを感じて、ある種の感銘を受けました。
そこに表現されるのは、家族やルーツといった「血の繋がり」のメタファー。そのいつもは「中」にあるものが、外側に管として自分に纏わり、自分を縛る。そして「心臓にも壁がある」と気付いたという彼女の言葉通り、「血」は自分と他者を隔て、同時に生を支える境界の象徴でした。
1997年の作品 『Try and Go Home』。断食の授業の最終日の朝、先生から頭に浮かんだ言葉を書くよう言われて出てきたのが "Japan" だったといいます。当時は日本に帰りたかった。土を掘った穴を「日本」とし、家という帰るべき場所を作ったものの、入ってみると違和感を覚えてまた転げ落ちてしまう。渇望して辿り着くのにどこか違う。その後に残った「洗っても落ちない土の感覚」を形にしたのが 『After That』 (1997年) でした。泥だらけのドレスは洗っても汚れが落ちない。これが、後に彼女の大きなテーマとなる 『Memory of Skin(皮膚の記憶)』 へと繋がっていきます。
窓があるところにストーリーがあり、そこからは人の生活が漏れいでる。同じ人種で同じ言語を話しながら、壁で隔てられ、窓を通してあちら側に思いを馳せていた東と西。窓は単なる建具ではなく、「内と外とは何か?」を問いかけているようにも思いました。
そして、2015年ベネチア・ビエンナーレの 『掌の鍵(The Key in the Hand)』。 今、私が日本で「物理的な鍵」を手にし、一つひとつの扉を閉めて実家を整理している行為。それは、二度と元には戻せない「不可逆的」な喪失に向き合う作業そのものです。 けれど、塩田さんが鍵を赤い糸で繋ぎ止めたように、私もまた空間に残した記憶がほどけないよう、この手で編み直すことができるのかもしれない。
実家の片付けは、日本という拠点を、自らの手でなくしていく作業そのものでした。だからこそ、苦しく、先に進むのを躊躇ってしまったのだと気づきました。
誰かの日々が綴られた日記の中には、戦争に行った若い兵士たちのものも多くありました。英語で「この日記を見つけたら両親に届けてください」と書き添えられたものもあったそうです。持ち主が「不在」だからこそ、開かれたページからその人の息遣いや物語が漏れいでる。バラバラになりそうな記憶を、時空を超えて紡がれた繭が優しく守っているかのようでした。
今回のサンフランシスコでの展示作品数は限られたものでしたが、その背景にある彼女のクロノロジー(年代記)と軌跡を、クリエイター自身が語る動画で辿れたことは、私にとって何よりの収穫でした。
ここまでに触れた作品のほとんどが動画で紹介されていたもので、暗がりの中でとったメモをもとにしているため、事実とは異なる部分があるかもしれません。あの言葉と映像をもう一度正確に受け止めたい。学芸員の方にも尋ねてみましたが詳細が分からず、家に戻って自分なりに探してみても、同じ動画を見つけることはできませんでした。
それでも諦めきれず、私は美術館に動画公開を願うメールを送りました。居ても立ってもいられず送ったそのメールの結びに、私は今の自分の決意のような思いを込めて、一文を書き添えました。"I wish to continue to seek my own answers in the years to come."
塩田さんは動画の中で言っています。
I have two homes - one is Japan and the other is in GermanyWhen I’m in Japan I miss Germany,When I’m in Germany, I miss JapanI can’t choose only one home.And recently I feel that I do not need to chooseHaving two home countries may even be a way to imagine a world without war
手放すことも選ぶこともしなくていい。どっちか一つとか、手放すとか、勝手に条件をつけていたのは自分自身だったのかもしれないと気がつきました。
「いまここ(Imakoko)」がどこであっても、私はもう家の中にいる。


































