2024年3月18日月曜日

Christmas 2020に一年を駆け足で振り返って

かなり前(日付 9/1/2023) から下書きで放置されていたものを備忘録として公開します。

日本の親戚縁者に宛てた近況報告元に加筆して、当時の写真を拾ってきて貼りました。古すぎる話ですが、よかったらお付き合いください。

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Better late than never という言葉があります。呆れる放置具合のこのブログでもそれが通用するか?8ヶ月振りに開けた新規投稿ページは、レイアウトまですっかり変わっていました。

2020年。怒涛のような一年でしたね。前回投稿した日は、会社でリストラが発表された日でした。5月には Black Lives Matter 運動、8月には早すぎる山火事が大規模に広がりました。火事現場から離れていても空気汚染がひどく、煙で燻んだ低い空にオレンジ色の太陽が浮かぶ光景は不気味そのもの。丸3週間外に出られず、コロナでのロックダウンより朝の散歩に出られないことがストレスでした。


朝8時半と夕方3時半の街の空

ベイエリアで、最初の不要不急の外出禁止令が出たのは3/17。当時カリフォルニア州の感染者数は617人、死者は11人と記録しています。それが今では累計感染者数は20万人を超え、死亡者は2万4千人に届く勢いで、ICUベッド数も不足しています。


一時期外での飲食が許可され、レストランは外で食べられるようテラス席を作ったり、テントを設営したりして、年末年始に向けて工夫していました。それがまた感謝祭の祝日後の感染者数急増で中止になり、年明けまでロックダウン。お気の毒でなりません。


ありがたいことに、ダニーも私も仕事は続けられています。仕事量も変わらず多いけれど、ここ数ヶ月でオンオフのバランスが取れてきました。ワクチンのニュースも日々更新され、来年に向けての生活の変化が気になるところです。


近くの湾沿いに広がる湿地帯に出かけて、朝日を浴びるのも私の大切な時間です。




私たち二人のストレス解消は、もっぱら料理。今年は立派な栗を韓国スーパーで見つけて、栗ご飯や渋川煮、モンブランやマロングラッセを作りました。


栗三種(渋川煮、マロングラッセ風、甘露煮)を包んだ大福も美味しかったな




さつま芋や柿なども手軽に手に入るので、今までにないほど「日本の秋」を満喫しました。


そうそう、斜向かいのお宅の街路樹には銀杏がたわわに実り、早くは9月半ばに銀杏ご飯を炊きました。


10月末には、パンデミック宣言が出てから初めての遠出をして、日帰りでメンバーになっているワイナリーにワインを受け取りに行きました。



秋晴れの下、久しぶりに外を歩いて、美味しいピザに舌鼓。テイスティングは室内ではなく屋外で、カウンターには透明なパネルの仕切りできていました。

寒くなる前は、近しい人たちとは外で食事も楽しんでたっけ。卓上ガスコンロでパエリアが上手くできたのには感動しました。二人分の小さめのパエリアパンだとちょうど良かった。




また先々週はおでん作り。日本食スーパーでおでんセットも手に入りますが、手作りは楽しい!がんも、さつま揚げ、ゴボウ巻き、ちくわぶなどは手作りを楽しみました。はんぺんも手作りは美味しいけど、真っ白のふわふわがお鍋にあると気分が上がる!こんにゃくもパウダーから作れるけど、その辺りは市販品にお世話になります。

 


ちくわぶは粉とぬるま湯を2対1でフードプロセッサーでガーっと混ぜて、木のスプーンに巻きつけ、鬼すだれで巻いてオーブンで蒸し焼きにした後、茹でて食感を出しました。具沢山のがんもやさつま揚げも美味しくできて、ダニーも「日本にいるみたい!」(おそらく深夜のコンビニの記憶)と喜んでいました(笑)。


ダニーの家族も元気にしています。例年は今頃アイルランドですが、今年は国内でも家族全員では集まることができません。ダニーママはケアホームで過ごしていて、先日ちょっと転んでしまったそうです。骨は折れず、特に大きな怪我はなく幸いでした。短期的な記憶が薄れることが多いけれど、いつ話しても楽しそうでいてくれるのは嬉しいことです。直接面会も制限される中、お部屋が中庭に面しているので、家族は時々、窓の外からママの笑顔を見れているようです。


二人だけのクリスマスは初めての経験です。ディナーは少々手間をかけて魚のパイ包み焼き、小さなツリーを飾ったり、家に籠るしかないからとホリデー飾りを工夫しました。



コーンフレークにチョコをまぶして固めた食べるツリーも眺めるたびにほっこりします。


毎年クリスマスの翌日に行われる家族の集まりは、オンライン形式でした。プレゼント交換もバーチャル。私のプレゼントは少し遅れて、素敵なアラン編みのセーターが届きました。

サプライズでダニーのビジネスパートナーからキャビアの差し入れがクール便で届きました。年越しがこれで一気に華やかになりました。

日本のニュースは日々ポッドキャストで追っています。驚くのは、コロナ感染者や死者数の数字が米国の1%程度で済んでいること。人口密度が高く、ほぼ普通の生活ができていながらこの数字とはすごい。Go to キャンペーンを活用していろいろな場所に旅行して、美食を楽しんでいる話を見聞きすると、同じ地球上でパンデミックを経験しているとは思えません。


米国では11月末の感謝祭を終えて、感染者数が増加、ICUの病床数が不足しています。クリスマス、新年と人の移動も止まらないので、私たちも引き続き用心していきます。


冬至冬中冬始め。これから寒さや乾燥がより厳しくなりますので、くれぐれもお体ご自愛の上、どうぞよいお年をお迎えください!

2024年3月16日土曜日

お久しぶりです

この投稿を公開したら一体いつの日付がつくのかわからないので、ここに今日は2024年3月16日土曜日ということを記します。そして以下はずっと下書きだったものに加筆したものです。

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お久しぶりです、というにはあまりにも長かったブランク。最後の下書きは、2020年のクリスマスに記し、コロナ真っ只中の年を振り返った備忘録でした。

今日は2023年9月1日。またぼちぼちと書いていきたいと思います。関東大震災から丸100年というニュースを聞きながら、いろいろなレベルで時の流れを感じています。

個人的には、昨年末から今年にかけて、いろいろありました。2年開けて、クリスマスはアイルランドに帰省して、久しぶりに家族との再会を祝いました。大晦日に戻る予定が、2日前に二人ともコロナ初感染となり、年明け10日まで隔離状態。二人とも熱は出ず、症状は咳と鼻水、そして私だけ嗅覚と味覚が無くなりました。これだけは避けたい、、と思っていた症状にかなり凹みました。2か月ほど倦怠感も残り、このままだったらどうしよう、、、と暗澹たる気持ちになったことを覚えています。

やっと体調が戻った3月。ダニーにガンが見つかりました。コロナ感染中にお腹の具合が悪く血便もあり、ちょうどキャンセルが出てすぐに内視鏡検査を受けることができました。本人も局所麻酔で内視鏡が映し出す画面で他のポリープと明らかに違う形相の腫瘍を見て、その場で覚悟したそうです。2日後に悪性との結果が出ました。

4月は腫瘍の正確な位置を特定して、治療方法を決めるために費やされました。血液検査、CT, PET, MRI の結果、腫瘍は大腸でなく、上部直腸でした。腸腺がんのステージは、腸壁のどの深さまで広がっているか(浸潤度)や転移の有無などで判断されます。幸い転移しやすいと言われる脳、肺、肝臓やリンパ節に転移はありませんでした。ただ腫瘍が骨盤に近く、手術で取りきれない可能性もあるため、臨床試験で臓器温存の可能性が高い治療法 OPRA(Organ Preservation in Rectal Adenocarcinoma)をとることになりました。

この治療計画では、5.5週間の化学放射線療法(化学療法と放射線療法の併用)、4週間の回復期間、そして18週間(3週間 × 6クール)のより強力な化学療法が行われます。この計画の利点は、53%の患者が手術を回避し、経過観察に入る実例が認められていることです。手術が必要な場合でも術前の治療で外科手術の成功確率は上がります。まだ体力もあるし、がんを除けば健康なダニーです。寛解する可能性は高く、それを信じて治療に入りました。

6月13日に5週間半の化学放射線療法を終了。平日朝7時からの照射に向けて、4時起きで薬を飲んだり、適量の水を飲んだり準備をします。副作用は、下痢、腹痛、吐き気、食欲不振、皮膚の火傷状態などです。放射線治療の最終回を終え、終了証明書を受け取ってすぐ、緊急治療室に直行。放射線誘発性大腸炎の診断で入院しました。24時間点滴をして、脱水症状の心配がなくなり安心でした。病院の面会時間に制限はなく、毎日8-10時間付き添うことができ、クロスワードをしたり、気分のいい時は動画を見たりして過ごしていたかな。数日と言われた入院が1週間になり、10日間で8kgも体重が減りましたが、家に帰れることを本人は喜んでいました。6月の記憶はただ疲れていたことだけです。

7月。今年の夏は楽しみにしていたイベントが目白押しでした。仕方のないことなのに、行き場のない怒りが込み上げたのを覚えています。留学時代の高校の同窓会、ずっと楽しみにしていた推しバンドの最後のコンサートツアー、ダニーの大学の特別ディナーイベント、大切な友人の結婚式。どれもこの夏に予定していたもの。コロナ明けで動けるようになったはずなのに、日々の生活は半径20kmに制限されている。色々なストレスが溜まって辛かった夏でした。

***以下は2024年3月16日に加筆***

8月。オキサリプラチン(点滴)とカペシタビン(錠剤)の化学療法を開始。点滴は病院でカーテンで仕切られたリクライニングできる椅子で行います。付き添いはできて、気を紛らわせるためにスマホでクロスワードをしたり一緒に過ごしました。抗がん剤点滴は2時間強ですが、事前投与の薬、看護師の確認、投与後のモニター時間など全部を入れると、病院にいる時間は時として6時間を超えました。看護師は二人組で、防護服とバイザーを身につけて薬のパウチを開けます。それだけ猛毒なんですね。その物々しさに初回は我々ビビりました。2回目の点滴後、トイレに行ったダニーをドアの外で待っていると、出てきた彼の顔が白くて「大丈夫?」と声をかけたら「なんか変な感じ、、、」と言い、そのまま喋り続けても何を言っているのか意味不明なのです。え、まさかの脳梗塞?と焦った私は急いで看護師を呼びました。彼も同じことを感じたようです。看護師は彼の手を上げさせたり、脳梗塞の症状確認のテストをしましたが、それらにはパス。暖かい毛布にぐるぐる巻きにされて様子を見つつ、医者からの連絡を待ちます。結局レアだが呂律が回らなくなる副作用があり、それが発症したようでした。症状が出て2時間ほどで消えましたが、最初は焦りました。月曜の点滴が終わると、翌日から朝晩服薬を始めます。2週間飲んで翌週はお休み。このリカバリー期間で体力を戻して、また点滴+2週間の服薬というのが1クールです。

2回目の治療でも同じ症状が出て、3回目の治療は血液検査の結果が思わしくなく延期になりました。その間は強い副作用に悩まされました。主な副作用は吐き気、腹痛、食欲不振。それでも薬は最低限の食事を摂らなくては飲めません。これがかなり辛かった。何が食べられるか色々工夫して毎日朝晩なんとか食べてもらいました。体重は私より軽くなり、そのうち水分さへも十分に摂れなくなってしまいました。

9月。第一月曜日はレイバーデイという休日です。その前日の日曜、水も飲めない症状をナースラインに相談し、救急に行くべきと言われ準備を始めました。かなり弱っていた彼は少し休んでから行くよ、と動こうとしません。そこをなだめながら車に抱えていきました。家では平熱だったのが、20分後に病院で測ったときはすでに40度を越していて、その後の血液検査では敗血症を起こしていたことがわかり、もう少し入院が遅れたら命に関わる状態だったと後でわかりました。そこからICU滞在1日を含め21日間入院しました。時に12時間病院に詰めることになった私も体力的に厳しかった。

入院とその後の精密検査を経て、彼には抗がん剤を無毒化する遺伝子が想定量の半分であることがわかり、それに応じて薬の量が減らされました。そのケースが多い人種であれば事前テストをしたけれど、彼はそれに当てはまらなかったのです。それまでの治療で副作用がひどかったのも体にかなり負担がかかっていたからだった=がん細胞をより強く攻撃した=意図せず効果が上がってる?と、気力が少し戻ってからは二人で前向きに考えられるようにもなりました。

減量した薬で予定通り治療を完了したのが、ちょうどクリスマスでした。1番のクリスマスプレゼントだね、特に願ったわけじゃないけど、と苦笑いしながらノンアルで乾杯したっけ。クリスマスディナーも用意しておいたけど、まだ食欲もなくクリスマスディナーは数日後に軽めに済ませました。クリスマスの翌日はアイルランドの家族とビデオコールでプレゼント交換。集えなかったのは私たちだけで寂しかったけれど、治療を乗り切ったダニーをみんなが笑顔で祝福してくれました。

2024年のお正月3が日はおせち三昧!このカラフルな写真は別途載せますね。

1月4日。CTスキャンを撮影。この時は気になる影は認められませんでした!しかし3月に予定されている詳しいMRI画像で最終的に手術が必要か否かが決まります。抗がん剤は飲み終わってもまだ作用しているので、時間をずらしての検査が必要とのことでした。

副作用もまだ続きます。お腹の不調に手足が痛む神経痛も加わり、緩和薬も飲みつつ、一生薬には頼れないからと医師の指導で薬を減らす努力もしていました。できることはなんでもやると治療に全力を尽くしたダニー。それまで待合室などで、治療を拒否する選択をした人と話して驚いていたけれど、終わってみて初めて、途中で(治療を)やめる人の気持ちがよくわかったそうです。

2月2日。喉の痛みと発熱で不調だったダニー。症状が出て2日後に念の為と自宅でテストをしたら、即座に二本線がくっきりと浮かび上がりました。遅れた家内隔離で私も共倒れになったらどうしよう?と超焦りましたが、無事ことなきを得ました。焦りの理由は、私は2月16日から3月10日まで日本行きを決めていたからです。ダニーの通院も終わり、去年キャンセルした航空券が無効になる前にと思い切って決めた矢先、まさかのダニーコロナ陽性!これが焦らずにいられましょうか笑  2月9日にやっと陰性となり、その後しばらくケホケホしつつも私が出発する頃には回復しました。さすがに私の留守中に再感染するということはないだろうと、絶妙のタイミングに安堵しました。調子がいい時にはオフィスに出かけていて、そこでもらってきてしまったようです。他者との接触は最低限だったのに罹ったということはまだ免疫が落ちているのでしょう。これからも注意が必要だと気が引き締まった出来事でした。

少し飛んで、3月13日水曜日。MRI撮影の日がやってきました。じつは12日の予定が一日延びて、その間ストレスmaxだったのですが、結果は良好でした。画像を見る限りでは腫瘍は消えていたのです。25日の主治医との面談まで決定ではないものの、手術はしなくてよさそうです。

そして今日、3月16日土曜日。長すぎる時差ぼけと戦いながら、やっとこの長〜い一年強を振り返ることにしました。何よりも日本での楽しかった3週間を忘れないうちに書き記し始めたいのでね。

とりあえず今日もいい1日を過ごせたことに感謝、今まであった様々なことにも感謝して、おやすみなさい〜

2020年4月21日火曜日

この2ヶ月

想像もしなかった世界が展開されています。

旅行記の下書きが溜まる中、先延ばしにしてるうちに、世界は目まぐるしく変化していました。きちんとしたものではないけど、日記もどきを書いていたので今更ですがこの2ヶ月を振り返ってみます。

2/9に、庭のフェンスが大風で倒れました。これ、我が家の大ニュース。両隣に連絡とったりあたふたあたふた。2/10には、コロナ@横浜のクルーズ船のニュースを心配していました。65人の感染確認、合計が135人と報道していたニュースをラジヲで聞いたっけ。

2/14バレンタインデー。日本で初めて80代の方が亡くなり、東京、和歌山、北海道、沖縄でも感染者が確認されて、屋形船でも広がったとか。外出せずに、家でバレンタインディナーを作りました。姪っ子がくれたロンドンのおしゃれシェフの料理、とっても美味しくできました。いつか写真載せます!

3/10(火)より、任意に自宅勤務となりました。私は会社のデスク&モニターが使いやすいのでその週は出勤したけれど、ほとんどの人が自宅勤務を選び、静かなオフィスが新鮮でもあり不気味でもあり。

3/11は東日本大震災から9年。コロナの拡大も激しさを増し、空港職員が感染した報道もありました。朝8時半からコンコール。静かだから仕事は結構捗った週。

3/12 いよいよパンデミック。いらんは1日で4000人以上の感染が確認されたとラジヲニュースが伝え、日本でライブハウスに勤めていたお母さんから感染した娘さんのインタビューを聞いた。まさか自分が。そう思うのかな、みんな。

3/16 この辺の学校が休校に。図書館なども休みで、私も家から仕事をすることにしました。米国も非常事態宣言、ゼロ金利政策。気休めかもだけど、実家の叔父にご飯と魚のお惣菜を宅配注文した。

3/17 ベイエリアで自宅待機(Shelter in place) 令施行。不要不急の外出禁止令が出た。CA州は10:47amで617件の感染、死亡者数11人。地元の郡は138件、4人。
夕方にスーパーに行ったけど、TPはもちろん、生鮮食品、冷凍食品、パンやなにやらほとんどすべて売り切れていて絶句。喜ぶべきか(?)聖パトリックの日を祝うギネスビールは売ってた。それを買って帰宅。パブやレストランはすでにすべて閉まっている。アイルランドも。こんな聖パトリックの日を誰が想像したのだろう。

3/18 地元の数値が1日で2割以上増えていた日。地元のスーパーに行って食品がストックされていて安心したのを覚えている。

3/20 このままいくと、最悪のシナリオでCA州の人口半数が感染して、病院で2万床が不足するとのニュースあり。確定申告支払いが7/15まで延期された。この日はInternational Day of Happiness、そして春分の日。

3/21 毎日散歩&スロージョギング。できることするしかないもんね。そんな中、ミサイル撃つなよ〜〜〜

3/24 オリンピックの延期が決まる。うーん、チケットどうしよう?
3/26 トイレットペーパーゲット!残り3ロールから一挙21ロールへ!ハレルヤ〜
3/27 日本でいうテレワーク期間が延期。早くてオフィスに戻れるのは5/4からとなった。

3/28 11:36 am時点。ベイエリアの感染者数 カッコ内は死亡者数 1689 (38)、米国 115,547 (1891), CA州 4979 (103), 地元の郡 574 (20), サンフランシスコ 308 (4).

武漢がshut downしたのは1/23で、米国で患者が確認されたのは1/30
この頃、3月末までのプロジェクトを終えるのに必死になっていて、明け方2時や4時まで仕事してた。

4/2 米国での死亡者は24万人に上るという統計を聞いて絶句

4/6 緊急事態宣言が5/6まで延期される。学校は新学年(8月または9月)まで休みになるみたい。

4/10 復活祭の日曜日。近所の教会の鐘もならずに近辺もひっそりとしている。歩いていると家々の窓辺にうさぎのデコレーションがあって、かろうじてそうだ、イースターだと思い出させてくれる。この日までに大丈夫なんちゃう?といったこの国のリーダー。。。彼が正しければ(これに限って)どんなに良かっただろう。

4/16 地元で外出禁止令が出て丸1ヶ月。我が家大人二人は、喧嘩もせずに毎日仲良くやってる。料理を作って、バブリーあけて、そのことに感謝した夜。

今こうやって振り返ってみると、ほんとストレス高めるライフスタイルでしたね〜。
その中でも、料理を作ったりできる事はやってたかも。写真の整理ができたら、簡単レシピも載せますね。

外出自粛例が出てからというもの、世界中の美術館やオペラハウス、才能ある音楽家やアーティストがフリーでコンテンツ&パフォーマンスを公開してくれています。感謝。
大好きなウクレレ奏者、Jake Shimabukuro氏も自宅からライブを公開してくれています。だからってわけではないけど、ダニーがウクレレ買おうか?と言いだし、私も賛成!2週間ほど前に我が家に到着して、やっと先週末から練習し始めました。

今日、いろいろタフなニュースがあった。それでもやることやるだけ。そう思ったことを記しておきたく。ただ単に備忘録として記すことをお許しください。

2020年2月21日金曜日

ぺちゃくちゃが世界に!

順調に旅行記を書けていたのに、また間が開いてしまいました。
いずれ続きを書くとして、今日はまったく別のことを。

タイムリーじゃないけど、昨日2/20は国際ぺちゃくちゃ日でした。
あるミーティングの始まりに、「今日はInternational PechaKucha Dayなんだよ〜、だからね。。。」と早口でマネジャーに伝えられてなんのことやらさっぱり。彼は別のミーティングで、その「PechaKucha」を披露したそうなのです。英語アクセントでのPechaKuchaは、Machu Picchuみたいで、え、世界遺産の遺跡?どこの?と混乱した自分。やっと「え?ぺちゃくちゃって、日本語なんですけど。。。」と返したら、彼の返事は「その通り!」

ここでいうPechaKuchaは、20枚のスライドを各20秒の持ち時間でシェアするプレゼンフォーマットを意味します。誰でもなんでも伝えたいストーリーをビジュアルにシェアしよう、ということみたい。日本で始まったらしいけど、初めて知りました。今は世界中にグループがあり、定期的に集まってワイワイやってるみたいです。

20枚 x 20秒だから、一人のストーリーは7分以内で収まる計算。いまだに長々しい文章を書いている私にはちょっとハードル高いけど、インパクトのある写真や画像+短い文章の組み合わせで、伝えたいことを表すっていいかも。このご時世伝えたいことがある人がたくさんいて、コンテンツも盛りだくさん。聞き手の人を考えてコンパクトにまとめるスキルを身につけるにはいいかもしれません。2/20/2020が国際ぺちゃくちゃ日だったのも、この20枚x20秒からきたんですね。それなら今年中ぺちゃくちゃやるべし?

そして英語でぺちゃくちゃは、chit chat。英語でもオノマトペなんだ〜!と繋がりました。

で、そのマネジャー、ヒップホップが好き。名前を入力すると、そこからラッパー名を作ってくれるというサイトに、ミーティング参加者の名前をあらかじめ入力してシェアしてくれました。ちなみに私は"Master Specialist"だとか。なんかラッパーっぽくない。。。でも職人っぽい感じはいいな、と感じた木曜昼下がりでした。

2020年1月24日金曜日

年末年始旅行記 2019-2020 ⑪ Jan 2

ビルバオに向かいます。朝日がきっもちいい〜!
荷物を積んで、さあ出発。ペヨさんが見送ってくれました。お世話になりました!
山間を縫う高速道路は日影でしたが、凍結してなくて助かった。欧州は通常2日から仕事始めだけれど、道路も空いていました。

一路ホテルへ。一見面玄関と思われた場所に車寄せがなかったので、日本で培った(しかし今は錆びついている)縦列駐車テクを駆使して、なんとか狭い場所に一時停めることができました。チェックインしたら、裏に車寄せもある入口があることが判明。とても親切なドアマンが車を移動してくれました。見かけラテン系美男子で、完璧なイギリス英語。目がハートになったのをダニーに見透かされましたw
ホテルはグッゲンハイム美術館の真ん前です。青く高い空が広がる朝。空気が澄んでいて、すっごく気持ちがいい!
美術館の周りを散歩しつつ、川沿いを旧市街へ。前回来た時は、日帰りだったので、旧市街に行くのは初めてです。





どこからみても絵になる、フランク・ゲリー建築。




15分も歩けば、旧市街に近づきます。


一番最後の橋を渡り、旧市街へ。

橋を渡ってすぐ好きなブランドのお店がありました。半額セールでいい買い物ができた!
バールが並ぶというスクエアを目指して、ウインドウを覗きながら歩きます。

結構お腹がすいてきた。最初に目についたバールに入りました。
名前がコテコテだから、観光客向けかなと思ったけれど、中に入ると常連さんらしき年配の方たちで賑わっていました。

腹ペコの二人は、5つのピンチョスをシェア。柔らかく戻したバカラオ、美味!

広場をぐるりと囲む建物の一階には、数多くのバールがの気を連ねています。時計回りに一周して、2軒はしごしました。


1軒目のすぐそばにあったここのお店。数々のトルティーヤが美味しそうで、また入ってしまった。


後悔なし!お肉系のものも、大当たりだったそうです。時間は正午過ぎ。お店が開いたばかりだったようで、静かでした。

暖かいので外のテーブルで食事を楽しむ人たちの姿も
何軒くらいお店があったかな?20軒弱でしょうか。どこも本当に美味しそう。

ほぼ一周しかけたところにあった、老舗っぽいお店を眺めていたら、毛皮をまとって、トイプードルを散歩させていた優雅なマダムが「ここ素敵よ!」と勧めてくれました。
お腹いっぱいだったけれど、一杯&一口だけね!

ウズラの卵をのせたマッシュルームパイ、皮がサックサクですっごく美味しかった。アンチョビも下のパテも新鮮。

他にも美味しそうなピンチョスが所狭しと並んでいました。


ウインドウを眺めながら、旧市街の路地を歩きます。ベイカリーでディスプレイされていたマジパン細工のワンコたち。


旧市街から新市街へ。新市街は、どこにでもある大手のブランド店やお店が並んでいます。午後1時半、14度ありました!


歩き疲れたので、ホテル戻ってチェックインしました。今回、このホテルはロケーションで選びました。
ある日、会社のみんなと年末の予定について話していた時のこと。ビルバオに行くの、と言ったら、ある同僚が大学時代の同級生がホテルで働いている、と言います。どこのホテルか調べてみるね、とチェックしたらなんと、このホテルと判明!チェックイン時に呼び出してね、と言われていたので、会うことができました。
イタリア人とアメリカ人のハーフの彼は、このホテルに一年弱前に移ってきたとか。それまではグローバルで展開するブランドホテルにいたそうです。日本にも行ったことがあり、大好きだと。嬉しいですね。
普段は朝食時にしかオープンしていないルーフテラスに案内してくれました。そこからの景色は素晴らしかった!
この写真はビルバオの今昔。かなり都市開発が進みました。
本格的なリノベーションプランがあり、いずれプールもできるそう。また寄らせてもらいます。美術館から戻ったら、バーで飲む約束をして、我々は美術鑑賞へ。
このパピーは、臨時の展示だったのが、人気のため常設に切り替わったというアート作品です。
日が落ちる前に、もう一度美術館の周辺を散策しました。
背後の見える橋のたもとまで水辺を歩き、階段を登って橋から美術館の入り口まで。この日もよく歩きました。
気温が上がり、午後は少し雲が厚くなりました。
右下の水面に出る霧も、アート作品です。夜は火柱も上がります。確か日本のアーティストの作品だったはず。






中に入ったのは4時頃。この日は8時までopenしているので、時間は十分にあります。

一回の大部分は、リチャード・セラの作品で占められています。




SOTOというベネズエラ出身のアーティストの作品が素晴らしかった。写真はNGでしたが、こちらの記事に概要が紹介されています。同じ作品でも、立ち位置を変えると見え方が変わる。多くのアート作品にも言えることですが、SOTOは鑑賞者の動きが作品を完成させる重要なピースと位置付けています。全てに引き込まれました。


鑑賞者もアートに溶け込む。その感じが素敵。







6時を回れば、夜の帳がすっかり降りています。

ホテルのバーは、とても居心地がいい



1月6日はスペインでは大きな祝日です。その日のオリジナルカクテルを作成中とのこと、美味しそうなのができてました。

8時にディナー。落ちついた内装にくつろいで食事ができました。




吹き抜けにそびえるアート作品も、夜のライトアップでまた雰囲気が変わります。
この日も13km, 17000歩歩きました。お疲れさま。

朝8時には空港に向けて出発です。