2014年6月28日土曜日

一年後

きっかり一年前、母と二人の姉、ダニーと私はフィッシャーマンズワーフでクラムチャウダーの朝ご飯を食べていました。
10日間のベイエリアの旅、到着日翌日は青空の下で49マイルドライブを満喫した一日でした(そのときの様子はこちら)。
その日々を東京午前2時に病室で思い出すことになるとは。いかによく食べたか、笑ったか。気分のいい昼間はそんな話もよく出ます。一周年記念に作ったフォトブックはお見舞いにきてくれた人たちにも好評でした。

ここ数日、新しい薬が加わりました。息苦しさやだるさが辛い時に飲むお薬です。本来は看護師二人が管理する薬ですが、付き添っている私に一包管理することが許可されました。少しでも早く症状を和らげるために。

気管のあたりを冷やすのも息苦しさを緩和すると担当看護師さんが教えてくれました。早速頂き物についてきた保冷剤をタオルに包んで胸に載せてみたら、気持ちよいらしい。よかった。鼻が詰まった感じもするらしいので、明日は胸に塗るすっきりジェルでも買ってこようか。一年後だって、明日だって何が起こるかわからないからこそ、いろんなことを工夫して進んで行こう。

2014年6月27日金曜日

個室暮らし2週間終了

15畳ほど(広いトイレと入り口を含むので居住スペースはもっとこじんまりしてるけど)の個室に引っ越して2週間が過ぎました。転院の話が消えた訳ではありませんが、付き添い許可も更新して、あとは流れに任せるのみです。

キッチンもシャワーもなく冷蔵庫も小さいけれど、それなりに住みやすい工夫ができてくるものです。血中ナトリウム濃度を薄めないため、病院食はカリウム減の食事に切り替わりましたが、その他の食事制限はなし。

フルーツをいただくことが多く、6月は果物オンパレードでした。

小玉スイカの皮の薄いのと甘いのにびっくりしました。
旬のびわ、さくらんぼ、そしてメロン。果物にはカリウムが多いのでとりすぎたかと焦りましたが、口当たりのよいメロンやハウスみかんは母の乾いた口を癒してくれました。
朝はハンドミキサーでにんじん、りんご、キウイ、トマト、オレンジなどをスムージーにして、酵素エキスで甘みをつけて食べてもらいます。
昨日はとれたてトマトをこんなに沢山いただきました。タクシーがなかなか来なかったので、箱ごと抱えてバスに乗ったのだ。母が大好きなブルーベリーも生でどっさり。ありがたいことです。家に帰るのは物を置きに、または持ってくるためだけに帰るだけ。洗濯も院内のコインランドリーなので、今の部屋で母と二人暮らしをしている感覚です。

右奥のピンクのパンは桃パン。桃のピューレを入れた生地に、中は黄桃とカスタード。焼きそばパンやコロッケパンも大きさも味もよく、
茶豆とチーズのベアクロウは生地がモッチリしていて気に入ってます。
院内の売店にはパン屋さんがあり、毎朝7時に焼きたてのパンが並びます。定番あんぱんやメロンパンは外来の患者さんが自宅用やお土産に買って帰るので午後には売り切れます。お惣菜パンも充実していて、日替りなのでいつ行っても目新しい。日本のパン屋は本当にすごい。焼きたてだと部屋に持ち帰るまでに袋に熱がこもってしわしわになってしまうので、ロビーのカフェが開く8時直前にパンを買い、淹れたてコーヒーとともに部屋に帰ってお店を広げていたら、看護師さんたちが「いい香り〜」と入ってくる。そんな余裕の朝もありました。
 食欲がなくても口当たりのよい甘い物は食べられる母とスイーツ試食会をしたり、
 月一回集まっている叔母たちがお惣菜を届けてくれてミニパーティをしたり。
ぬか漬け類も体にいい発酵食品、納豆と一緒に積極的にとっています。
そして先日は、アメリカに住む友人Eさんが、京都のおばんざいをこんなに沢山送ってくれました。家を守る料理音痴の叔父にも茹でられるおそばや、数々の珍味やお漬け物。身欠きニシンは母も叔父も大好物。生そばは家で茹でてお出汁は病院で温めて、母もニシンそばをおいしくいただきました。はっきりした味わいをより好むようになり、塩分制限もない母にはこのお味は最高です。
寝ている体を起こすと息が切れるので、始めはいつも辛そうですが、いろいろ少しずつを楽しみながら食べられた日はとても嬉しいです。
病院の食事もなかなかです。ワールドカップで日本が試合をする日の朝食には、必ずサッカーボールチーズが お目見え。煮物のお味も盛りつけも上品で、炊き込みご飯やカレーなどご飯物のバリエも豊かです。日々体調が変わるので、ペースを掴みながら食事を楽しんできました。

しかし一昨日からめっきり食欲が落ちてしまった母。食事をするのがこんなに重労働だったとは思わなかったともらします。少しでもカロリー摂取量を増やすために、高カロリーゼリーが食事に加わり、栄養補助剤のドリンクもすすめられています。幸い味が好みに合うようでゼリーは食べてくれますが、普通のおかずやご飯を食べられる量にムラがあります。今夜はゼリーを食べただけ。でも息苦しさもなくすやすや眠れているということは、今の彼女は食べ物より睡眠が必要なのでしょう。
一喜一憂。雷雨大雨警報や大粒の雹が叩き付けるように降ったかと思えば、真夏を思わせる雲もでる今年の梅雨。天気と同じでコントロールできない事柄については、日々かまえずやってくしかないねと思った自分を覚えておきたい。

2014年6月23日月曜日

一番辛く贅沢なとき

母が末期の肺がんと知ったときの驚きと悲しみ。それはやがて恐れ、怒り、いらだち、無力感や罪悪感に変わりました。

今思えば、一週間ほど前でしょうか。かちっと音を立てて何かが切り替わったかのように、いろんな感情が消えた瞬間がありました。今まで感じていたのはあくまでも”私”主体であったことに気がついて、その線引きが消えたというか。うまく言えないんですが、溢れる存在感を持っていた悲しみといらだちがおさまり、心のざわつきが消えたのです。それまでは焦っても怒ってもいい事ないと努力しても消えなかった感情なのに。

母は私がいらだったり悲しんだりするのは一番見たくない、それがすとんと腑に落ちて、感情がリセットされたのか。自我が消滅したなんてことはありえないけれど、そういった瞬間が訪れたんだと今は感じます。明日や昨日や一ヶ月前や先を憂うことなく、一年前に母たちが遊びにきてくれたことを懐かしみながら、今年の夏はアイルランドにダニー家族を訪れるはずだったのにと歯ぎしりすることもない。”たら、れば”からの解放!

そんな日がずっと続けば聖人君主なんでしょうけれど、そうはいきません。でもそういう心境になる時間は日々の中で増えている気がします。

母との時間だけを大切にすればいいというのはなんて贅沢なことなんでしょう。気が多い私は、今までも優先順位をつけるのに頭を悩ましていました。やりたいことがありすぎて、睡眠時間や近しい人との時間が犠牲になるのは当たり前。日本帰国時の予定は分刻みで、母との時間もしっかりは取れていませんでした。それが今は全ての人たちや環境が母との時間を優先するようすすめてくれる。

たまに行く銭湯を除いて、私のプライベートの時間はありません。というか自由になる時間があれば、私は母のそばにいたい。どこかしらをマッサージしたり手を当てたり、窓の外を一緒に眺めたり。話したいことや聞きたいことは沢山あるけれど、無口な母と交わす言葉は決して多くありません。それでもただ同じ空間を共有して、病院の忙しいスケジュールをこなせば、一日はあっという間に過ぎて行きます。

見舞いに来る親族と話す、母が寝た後にこうやってブログを書く、ダニーとの交信や友人たちとのメールのやり取りが外界との大切なつながりです。これだけの限られた世界で母を一番に考える事ができるなんて。物事にはいつも二つの側面がある。今の日々はまさにそれを体感させてくれる不思議な時間&空間です。

2014年6月21日土曜日

Best bath ever

昨晩母は胸の痛みを訴え、どうしようかと思うほど一時期つらそうでした。血圧も上がり心配でしたが、体の向きを変えたり足マッサージを続けたりしていたら、呼吸も落ち着き眠りにつきました。

体ふきと足湯だけで過ごした3日間。丸二日病院から出なかったので、今日は思い切って近所に天然の黒湯温泉がある銭湯を見つけていってきました。古い佇まいの商店街を行けば、路地からとことこ出てくる猫たち、いきなり現れる公園、自転車で行き交う人たち。祖父母の家に遊びに行った夏休みの夜の匂いが辺り一面に立ちこめていて、タイムスリップしたような気がしました。

久しぶりのお風呂は言うまでもなく最高。焦げ茶色の黒湯は地下120mの源泉からくみ上げられ、5分も浸かれば体が芯から温まります。泡に包まれて最高のリラックスタイムを過ごすことができました。今は私の健康管理も母の健康と同レベルで大切なのは事実。夜勤の看護士さんに挨拶をして、病室に戻り母の酸素モニターを確認したら99から100に切り替わりました!左肺の働きに敬意を表して足マッサージを30分。そろそろ私も眠ります。

2014年6月19日木曜日

19日目の熟睡、二十日目の静寂

例年にない大雨が続いたかと思えば、焼け付くような日照り。健常者でも体調を壊すこの季節に病院で過ごせるということはありがたいことなのかもしれません。

日々一喜一憂しながら、帰国して20日が経ちました。

息苦しさを除き一見元気そうに見える母の内部ではどんどん病気が進んでいて、いつどうなってもおかしくないと言われ続けて入院22日目を迎えました。

年齢、体への負担、病巣の状況など分析した結果、効果的な治療方法はなく、緩和治療のみと診断され、救急病院でもある大学病院からは転院を勧められています。いくつか病院を見に行きましたが、希望に沿う場所が空きがなく、もう一カ所は家族が泊まり込めない病院。頭を悩ませていたところ、同じフロアの個室が空いたので13日からそちらに移ることができました。
晴れた日には富士山が見える広い窓がある明るい病室です。

私は折り畳みベッドで泊まりこんでいます。しかし今日、また主治医から転院先の希望を聞かれました。日本式コミュニケーションの難しさを感じつつも、こちらは病院に迷惑にならない程度にこのままこちらでお世話になりたいと伝えました。自分のコントロールできないことはお任せするしかない、難しけれど今一番自分に必要な考え方なのだといい聞かせながら。

夜半に続く咳、出そうで出ない痰、日に三回の吸入と服薬。レントゲンや採血も頻繁で一日があっという間に過ぎて行きます。自分で思ったように歩けないもどかしさ、息苦しさは見ていてつらいけれど、本人は弱音を吐きません。もう少しいろいろ言ってくれた方がありがたいと思いながら、その我慢強さには感服です。

食事時にむせたり、夜中に急に血中酸素の値が下がったりとヒヤヒヤする事も何度かありました。今は右肺が完全に機能を失って、左肺に頼っています。レントゲン写真で右肺が真っ白になったのを見た時はかなりショックでした。それ以前も胸水で下半分は白かったのですが、一面真っ白とは。しかし医師に寄れば、中途半端に機能が弱った肺に血液が流れ、酸素不足のまま体内を巡ると体全体の血中酸素が低下して危篤に陥るとのこと。片肺でも元気な人がいるので、その意味では最悪のつぶれ方は逃れたそうです。今までもそうでしたが、これからより怖いのは感染症。肺炎や出血しているであろう右肺門部から健康な左肺に炎症が広がらないよう見守るしかないようです。

幸いにも本人に痛みはなく、食欲も比較的旺盛です。私の役目はちょっとでも元気になってもらうことなので、いつも喉に小石が詰まっているようで食欲がないのですが、美味しく食べるふりだけは続けています。そのうち美味しくなってくるから、やっぱり食欲の種火が消えることはないのでしょう(笑)。

一時間おきに咳き込む夜が続いた3日目には、意識が朦朧として、全てに腹が立って仕方がありませんでした。

感情に変化があるのは当たり前。最初の2週間は呆然と悲しみがメインだったけれど、ここ数日は、行きどころのない怒りと無力感に頭を抱えました。2月からかかっていた耳鼻科があれほどの咳をただのアレルギーで片付けていたことや、しつこい鼻血がつづくと聞きつつ血痰かもしれない思いつきもしなかった私自身が許せずにいます。話を聞いてくれる友人も親戚もいるけれど、結局彼らも忙しい。実際に頼りにしていた人たちに距離をとったことを言われ絶望と反発心で黒いエネルギーが渦巻いたりもしました。誰もが通る道だけれど今この道を通るのは自分だけ。孤独感と頭の芯がしびれる疲労でとにかく忘れ物ばかりしていました。数日前は印鑑、通帳一式、そしてまとまった現金が入った袋を病院ロビーに置き忘れ、寿命が数年は縮まりました。。。15分はゆうに時間が経っていましたがそのままの状態で椅子にありました。さすがニッポン。

昨晩母が数回の咳だけでゆっくり休むことができたので、私も看護士さんの見回りにも気付かず、6時まで熟睡。それまでは夜9時に折り畳みベッドに倒れ込んでも1時間おきに目が覚めていたのに。

先の事はわからない。でも今日も私はできるだけのことはやりました。いつもより俄然夜更かしだけれど、安らかな母の寝息を聞きながら久々に更新するブログは、今までより一番「いまここ」スピリットに満ちていると思います。

2014年6月12日木曜日

日本での日々

5月31日、久しぶりに成田に着きました。母が入院している病院へ直行して、顔を見たときの安堵感は言葉には表すのは難しいです。

喘息か風邪か花粉症か。長引く咳を本人も周りも気にしつつ、耳鼻科では何も見つからず、数ヶ月が過ぎていきました。

本人は毎日の近所の買い物、週一度の体操教室とペン習字のお教室、月に一度のお友達との外出や妹達との集まりも変わらず楽しんでいました。

先月初旬お教室の帰り、いつもは問題なく歩ける距離が息苦しくて帰れないかもしれない。無事家には帰りましたが、そのときは不安だったようです。翌週近所の医院に行きました。長年お世話になっていたホームドクターが去年亡くなり、よほどのことがない限り病院には行かなくなっていたのも今となっては悔やまれます。

レントゲンで胸水がたまっていることがわかり、週明けに大学病院を訪れました。一週間後の月曜、検査の結果、水曜日に再入院の運びとなりました。通院、入院には母の妹達が付き添ってくれて私も逐次話をしつつ、再検査してもらえば安心だと本人も周りもゆったりと構えて入院当日を迎えました。気管支鏡検査は本来日帰りの検査ですが、89歳という高齢のためゆったりとした日程が組まれただけですから。

入院当日の予定を聞こうと日本時間の木曜日夜に付き添った叔母にCA時間午前4時半に電話をしました。すると「今、帰ってきたところなのよ。。。。ちょっと一息つかせて。あなたに話さなくちゃと思ってしっかり聞いてきたから。」送り届けるだけならとっくに帰っているのに今帰ったところと聞いて血の気が引きました。さーっと音を立てて血の気が引く。この表現を身にしみて感じたのは初めて。

20分後に電話する事にして、私も身支度を始めました。仕事は毎日12時間、やる事は満載です。かけ直した叔母は静かに「長くなるわよ、時間は大丈夫?」と切り出しました。

結論を言えば検査の経過、治療のオプション、その他諸々を話すために一人娘には早く帰ってきてもらうべき、自分にも電話するようにと主治医から言付かったとのこと。主治医の先生は丁寧に所見を延べ、限られた選択肢を説明してくださり、私は電話を切った直後にチケットを予約しました。

いつもより遅れて出社した私を心配していた同僚たちに、今日で仕事を辞めざるを得ないと話して、心配でパンパンになった頭を仕事が解放してくれたことに感謝しました。

いつどうなっても不思議はないという主治医の言葉が響く中、久しぶりの成田便に乗り込み、ただ頭を空っぽにすることに集中しました。

成田上空から、また都心に向かう車窓から、目を細めながら見た緑。日本とはなんて水に恵まれた国なんだろう。田植えが終わったばかりの水田や周りの樹木の新緑の鮮やかさを、私は決して忘れないでしょう。

帰ってきて丁度今日で2週間。日々、これほど”いまここ”に集中したことはない。そういえる毎日を過ごせることに感謝しています。