2014年7月30日水曜日

弔いを終えたひとびと

8日前、帰国後初めての外出で26年来の友二人と会いました。頻繁でなくても会えばすぐにくつろげる大切な仲間たち。二人ともお父様を見送っています。母の旅立ちを心から悼んでくれたうえで、それぞれの体験を話してくれました。

その友の一人は、自身も海外出張を続けながら、勇敢に病を受け止め全力で治療を続けています。そのパワーたるやすばらしい。やはり母は強し。

もう一人は児童館の指導員として、下は5歳から上は小学校高学年までが楽しめる教育プログラムを作って自ら指導に当たっています。ゲーム世代の子ども達の興味を惹きつけるのは並大抵ではないらしい。以前は介護世代の相談員も手がけていて、これでゆりかごから墓場まですべての人達の役に立てる職に就くことができたと輝く笑顔で話してくれました。

みんな自分の家庭をしっかり守りながら、生活のためだけにではなく、社会の役に立ちたいと働いている尊敬できる人達です。

昨日は母の四七日でした。特に意識したわけではなかったけれど。朝からふつふつとした寂しさがマックスになったお昼過ぎ、電話が鳴りました。10日前にお参りに来て下さった母の職場の方でした。息子さんの車でいらしたその方は母より7歳ほど年下で、とても上品な言葉遣いで母との思い出を語って下さったのです。朝、なぜかその方の優しい声を思い出していたので心底驚きました。私の体調を気遣ってお電話下さったとのこと。仕事には厳しかった母ですが、部下の女性達のお誕生日には必ずブラウスなどのプレゼントをロッカーに入れてくれたこと、給料日前には時に徹夜でだるまストーブに石炭をくべながら一緒に仕事をしたこと、学長さんや先生方もよく事務室に世間話をしにいらしたこと、学校の銀器コレクションの管理も担っていた母は、教授会のケータリングを富士屋ホテルから調達していたこと、紅一点で上からも下からも慕われていたことなどなど。

ご主人のがんが見つかったとき、遠くの他県でお医者様をしていた息子さんがとるものもとらずに戻ってきてくれたそうです。不平不満を一切もらさなかったご主人が「がんになったおかげで息子が帰ってきてくれた」と涙をみせられたそうです。だから私の母も病には倒れたけれど私が駆けつけたことでどれだけ心強く嬉しく幸せだったことかと。

夜は中高時代の先輩とお会いしました。一年前、彼女も長く患らわれたお父様を見送られたばかり。高校時代一足先に留学した先輩には、出発前にネイティブの会話の先生を紹介してもらったり数々のアドバイスを頂きました。お母様、お父様、妹さんととても仲のよい憧れのご家族でした。父っ子だったという彼女の悲しみは一年経ってもまだ脈打っていて、それでも、最後つらかったお父様を思いやってもういいよ、と思えたと話をして下さいました。ドクターだったお父様が徐々に知っているお父様で無くなっていくのを側で支えるつらさ。それも長い時間をかけて寄り添い見守ってきたご家族の優しさに涙が抑えきれませんでした。お父様の法事が母の納骨と同日同刻、霊園もすぐ側とわかってこの日でよかったんだなあと勝手に思っています。

昨日は母が私にかけてくれた言葉と一言一句同じものを、ご友人から、先輩の口から、改めて聞くことができてどれだけ救われたことか。

凹んでるときに絶妙のタイミングで届くサポートなしにこの28日間を乗り切ることは不可能でした。早く母を安心させたいけれど、まだまだ心配をかけっぱなしのようです。

2014年7月29日火曜日

何事も

あわてずに。相次いで起きる出来事から受け取るメッセージはひとつ。一息ついていればよりよい方法があったなあと思わされることばかりです。

疲れがたまり、余裕がないときこそ慌てないことが大切なのに、この所ずっと慌てていました。慌てるくせにやる気が出なくて空回りそして余計落ち込む。そんな負の連鎖から抜け出せずにいたようです。

母の納骨は勢いで 8/10に決めたのですが、ゆっくり調整して8/17の仏滅にすればよかった。そうすればより四十九日に近かったし、お盆の混んだ週に九州の親戚を訪ねて迷惑かけることもなかったなあとか。無駄足を踏んだ手続き関連も考えればもっと効率的にできた。慌てたばっかりにどれだけ自分のエネルギーが漏電していたこと。この慌ては全部一人でやらなくてはと孤立した考えから出てきたのか。でも正直いえば孤独で不安。

その結果今燃え尽きています。きちんと母の死を悼む時間もなく追われるままに任せていた代償。たまの気分転換や周囲からの励ましでやる気を奮い立たせていたけれど、一時の高揚が過ぎれば余計に気分が沈んでいた。

変則的な弔いの仕方だから、納骨の日付などで母の魂が迷うわけではない。今のエネルギー不足を補って元気でいることが母への供養なのに、無気力とかなしみを持て余すばかり。

とにかくひとつづつ片付けるしかない。時間は贅沢すぎるほどあるでしょ、普通は家庭や仕事もこなしながらやるんだよ、あんたは自分一人の日常さへもてあましているの?と、理性は淡々と語る。前は、そうその通り、だけどこれでもやるだけやってるさ、と反論できたのに今は全面白旗です。

今あわてるのをやめるということは、このモヤモヤから自力で抜け出せないうちは無理をしないことなのか。「現実逃避の理由付けなんじゃないの?」という理性の声も聞こえます。でも濁った水をかき混ぜたっていいことない。

と、ここまで書いて慌てるって「心が荒い」なんだ!と気付いた(間抜け)次第。だから今は少し静かにしていようと思うのは正解なんだ。なんかすっきりした。

2014年7月28日月曜日

タイムスリップ

「今日はさわやかだった」自分の口からこんな言葉が出ようとはびっくり。暑いことは暑いけれど、湿度が少し押さえられただけで、炎天下も日傘があれば大丈夫で過ごしやすかったです。

数々の用事を済ませるため、赤坂方面に出かけました。アポがあったにもかかわらず30分も銀行で待たされたうえ、元々言われていた所要時間内の倍以上の時間がかかると聞いて頭に血が上ってしまいました。ここはどこ?日本でしょ?

ったく。。。と次の用事までの時間をつぶす目的で文具メーカーのショウルームに入ったら、すてきなノートを見つけました。A4が三つ折りできれいに挟める手帳で、テンプレートもダウンロードできるので自分オリジナルの手帳もつくれます。
米国ではレターサイズが主流だけれど、まだ日本で整理するべき書類が沢山あるので工夫して使えそうです。ショウルームの女性が説明してくれるのを聞いてふと「日本の文具はほんとに進化している」ともらしたら「海外にお住まいですか?」ときかれ肯定したら「そういう雰囲気がされますね」と。ちょっとこれ微妙。。。これ他でもたまに言われるんですよね。東京で浮いている理由を自己分析すると、スタイル太め、色黒、ヘアケア&メイクが雑 (本日エクステもとよりノーマスカラ)、ファッションがトーキョーしてないなどなど。彼女はハワイに数年滞在した元同僚と私に共通点を感じたようですが、そうすると日焼け路線か。。。
ま、海外暮らしということですてきなお土産をもらいました。メーカーオリジナルのあぶらとり紙と扇子。ということはメイク崩れ?

その後信頼する歯医者さんへ。ここは亡きO氏のオフィス向かいにあります。私が勤めていたのはバブル真っ盛り。その後もO氏を訪ねる度に周辺は変化していましたが、そのクリニックは昔のままでした。予約の電話を受けてくれた人が私が名乗ると「ずいぶんお久しぶりですね」と言ったのにはびっくりでした。最後に行ったのはロンドンに移り住む前だから22年にはなります。米国で治療した歯の具合が悪くこの先生にいつか治してもらいたかったので思い切ってよかった。一旦米国に戻り、再度日本に戻って本格治療を始めます。

その後、ふと思いついて表参道に足を伸ばしました。この辺りは昔よくデート、一人の散策、O氏や友人達と集まったエリア。当時と全く変わっているところも多いけれど、変わらない懐かしい場所もあります。
スパイラルマーケットは昔のまま。誰かへのプレゼントでも、自分への一品でも絶対気に入るモノが見つかる大好きな場所。
アメリカ製のモノでもここで見つけて戻ってから買ったりしています。
特に空腹ではなかったけれど、朝から何も食べていなかったのでO氏とよく来たおそば屋さんへ。午後5時の店内はいい感じに静かで、私より一足先に入った若い女性はレバニラとビールの小瓶をオーダー。私は高菜そばとビールの中瓶を。
上に載せる具を麺より先に出してくれたので、しゃきっとしたもやし、ピーマン、タケノコと高菜の炒め物をつまみながらビールが美味しいこと!おそばのスープはすっきり醤油味。そのままで、またお酢をたっぷり入れてと変化が楽しめます。このところ私の体は天界にいる人達に懐かしい味を届けるために在るような気がしてならない。それならそれでいいけど、カロリーもオフセットしてもらわないと困るんですけど (笑)。

大満足のおなかを抱えて有楽町の交通会館へ。ここも不思議な建物ですよね。内部改装はしてるんだけど、昔からの匂いは同じ。都道府県のアンテナショップもなんか懐かしいというか古くさいし、天望レストランもしかり。初めてパスポートを申請してから30年数年かあ。旅券申請フロアはすごい数の人々でごった返していました。今日来たのは母の旅券をVOIDにするため。今でなくてもいいけれど限りない数あるいつかやらなくてはならないことの一つ。二年前に10年旅券を申請したばかりでした。99歳の誕生日祝いの世界クルーズ旅行にはまた新しく10年旅券を取り直さなくちゃね、と笑って話していたのが昨日のことのように思い出されます。
今日の午後は、多くの大切な人達と過ごしたいろんな時空に出入りした気分。Love you all so much.

2014年7月26日土曜日

活字と音

先日、用事で母が入院していた病院に出向きました。外来の診察時間をかなりすぎた昼下がりは、がらんとしていて、歩き慣れた渡り廊下を進むと景色がゆがんで見えました。母が私を出産し、45年間無欠勤で働き、人生最期の 33日間過ごした大学病院。母がいた日々とその後ではいろんなことがゆらゆらとする。まあそんなものなんでしょうね。

用事を済ませ、お気に入りパン屋さんでその日最後の一個となったあんパンとその他数種類のパンを仕入れて帰り道、ふと図書館の建物が目に入りました。

何気なく入った建物は静かで、明るいけれどいい感じにひんやりしていて、懐かしい本のにおいがやさしく香ってきました。夏休みだから日焼けした子ども達もいるけれど、みんな静かに思い思いに本を開いたり、ヘッドホンを耳に当てていたり。

ポッドキャストで日本の対談番組を聴くのが好きで、その都度読みたい本をメモしていました。そのメモは持っていなかったけれど、すぐに思いついた二冊を探したら、難なく見つかりました。その他にも地元 (CA) の図書館で借りそびれていた二冊の翻訳本も見つかり、今日図書館にきた自分よ、でかした!
他に世界の楽器カタログという二枚組のCD3巻も借りてみました。世界の楽器90種類の音色で奏でられる音楽が収録されているそれは、眠れない夜に聞くと想像力の扉が開きます。

さっき読み終わった本は「生かされて。」原題はLeft to Tell. 1994年のルワンダ大虐殺を生き延びた女性の手記です。3ヶ月に渡り狭いトイレに7人の女性と隠れている間に家族を国外にいた一人を除いて全員殺された彼女。それでも信仰の力で敵を許すことにしたその愛と勇気は、私の想像力を遙かに超えます。許しと慈悲。この二つを身につけてこの世を去ることはできるのか。望んで努力して心から信じればかなえられないことはないと著者は唱え、生き証人である彼女が言う真理は力強さに満ちあふれています。このニュースをロンドンで聞いた時の衝撃が私の中に強く蘇りました。人間の果てしない可能性。両極端の可能性をこの本は事実に基づいて今一度考えさせてくれます。

土曜日にも関わらず立て続けに届く簡易書留。どれも母がこの世にもういないという証明書類を求めるものです。読み終わったばかりの彼女の経験がまだ脈打っていて、それに対して天寿を全うしたといっても過言ではない我が母。なのに小石はまだ詰まったままで手と頭は動かず。

それでも活字と音で触れる世界は、このところ捕らわれていたバイナリーな見方(母生前・死後)から少しずつ私を自由にしてくれています。

2014年7月25日金曜日

おかげさまで戻ってきた食欲

火曜日は帰国後初めての夜の外出。26年来の友人と会いました。この話は又書きます。

昨晩は兄がディナーに招待してくれました。彼とだけは一つ屋根の下に暮らした経験があります。父が母を迎えたとき彼は高校受験生。結婚前に母が初めて家に招かれたとき、勉強で忙しい兄が学校から帰るなり掃除機をかけ始めた姿に涙をこらえたと話していました。そうだったか?と苦笑いする兄。

数回目に病室で見た私の顔色があまりにも土気色だったので一段落ついたらうまいものを食いに行こうと。そしてごちそうになったのはかにしゃぶ、

 
 亡きO氏大好物だったアワビと胡瓜の和え物。お盆明けだけど一緒に食べてた?
食べたいものがないちぐはぐ感は、旬の食材を使ったプレゼンテーションが美しいお料理に、最高の日本酒に吹き飛ばされました。 
 鱧の押し寿司 夏ですねえ。銀だらの西京焼きは柔らかくて美味でした。
かにはもちろんのことお酒も美味しゅうございました
 
 
一番年が近い兄でも私が物心ついたときには大学生。夜が遅いのであまり会う機会はありませんでしたが、思い出は結構あります。

あるとき、兄はに幼稚園に上がる前の私を乗せたオートバイを押していて停められました。兄妹と見えず職務質問で独身と聞いて不信感も高まったところ、あいにく免許不携帯。長いひげを生やした制服のお巡りさんが何とも恐ろしく、待っている間の時間はそれは長く感じられました。兄にこのことは秘密にしろと約束させられた私は、ある朝テレビで童謡「犬のお巡りさん」を見て大泣きします。母の代わりに面倒を見てくれていた伯母に問いただされ、がんばったつもりが結局口を割ってしまいました。兄は裏切り行為だといい、私は人生初のトラウマと意見は分かれるところですが。

国家公務員として多忙を極めた兄は周りが驚くほど早くに現役を退きました。思い出に残ったことを聞いてみたけれど、今になってふと浮かんでは笑みする思い出は、全て家族との何気ないことだとか。豊富な経験から仕事でつながった人達とのエピソードもかなりなものと思っていたので意外でした。小中学校時代や大学時代の友人とのいくつかのグループとはまだ会っているそうです。

86歳の誕生日に亡くなった父の話も聞けました。私が30になるまで生きてくれたのに、素直に話を聞く態度が足りなかったと後悔しても遅いけれど。軍人だった父の厳しいしつけの洗礼を受けた兄姉。私にとっても父は厳しい人でしたがその比ではなかったらしい。全員性格は違うけれど、この70億人以上住む世界で半分血がつながっていると言うことは単純にすごいこと。家族だからいろいろある。いろいろあるから家族になった。両方いえることだと思いながら、亡父母を中心に広がる縁に今一度深く感謝しました。

2014年7月24日木曜日

Are you speaking Polish?

これまたダニーが母を観察して言いました。母は見知らぬ人からの電話をとるとほぼ必ず、何語で話してるんですか?といわんばかりの表情で困惑しているそう。たしかに、そういわれればそう思える顔してるんです!

単純に相手が早口だったり聞こえにくい小さい声だったりして、よくわからない、しっかり聞かねば、というのが眉を八の字に寄せてしまったのだと思います。

ダニーは母が電話をとるのを楽しみにして「今のはハンガリー語かチェコ語(まったくちんぷんかんぷん)だったね」とか「訛りがあるけど英語だった(少しはわかったらしい)かも」とか言うので都度笑ってしまいました。

こう思うと母の笑える話って、ダニー絡みが多いなあ。二人は私が時差ぼけで早く寝てしまった夜更けには、私が中学時代に使っていた和英/英和辞書を駆使して会話を続けていました。戦争時代の配給の話などを母から聞いたダニーは自分の母にその話をしたりして、橋渡しもしていました。母ははっきりとゆっくりと喋ってくれるので、私の日本語よりよっぽどわかりやすいと何度言われた事か(苦笑)。そんな母はもう居ない。ダニーは来月この家にくることをとても恐れています。その気持ちはよくわかる。海の向こうのわが家から彼が見るスカイプの画面にはいつも母が居たのですから、今は悲しみがマックスでも仕方がない。それを乗り越える日が来るのも事実。あたりまえのことを又きょうも思います。

2014年7月23日水曜日

魔法の戸棚

しつこいと言われそうですが(苦笑)母の整理整頓上手と物持ちのよさは大したものでした。私が小学校/中学校時代に持っていた筆箱や石けん箱などの生活用品(中学から寮生活をしていたので)は現役で使われ、時に忘れた頃に登場して驚かされました。昨日は小学校時代の使いかけの消しゴムを発見、またそれでしっかり消えるのでダブルにびっくり!

実家で何か必要なとき「xxxある?」と聞くと母は決まってこのカーテンを開けて、奥行きの深い戸棚から、または上のガラス戸からリクエストの品を取り出してくれました。
電気関連ケーブル類、巻き尺、電池、リボン、輪ゴム、その他諸々の文具類などなど、出てこなかった物はないほどです。
ダニーと私の結婚式に額縁でサインを作ったりしたときも、クラフト用具は全て揃いました。手先の器用なダニーが多くの作品を作ったのですが、そのときの彼は「結婚するのに工作スキルが試されるとは思ってもみなかったけれど、お母さんの戸棚のお陰でなんとか乗り切れました」と丁重にお礼を述べ、皆に大笑いされました。

その後もことあるごとに、カーテンを開けて頭を突っ込み必要な物を取り出す彼女に感嘆していた我ら。

ある日ダニーが真面目な顔で「お母さん、生のパイナップルありますか?」聞きました。当然?一杯の顔になった母。ダニーは「ああ、パイナップルがなければグアバでもいいですよ。お母さんの戸棚になら絶対あると思うから」と真面目な顔で続ける彼。一瞬の間ののち、部屋は大爆笑に包まれました。前からダニーが”お母さんの戸棚は魔法の戸棚”と言っていたのを母も私も同時に思い出したのです。

その戸棚は今も大活躍しています。大小様々の封筒、記念切手類、美術館で買い集めた一筆線から高級和紙便せん、かわいいぽち袋やのし紙類、包装具一式、蚊取り線香などなど。日々いただくお便りに返事を書くのも楽しみになってきました。物を大切に活かしてきた母のために、せっせと戸棚の中身を役立てていこうと思います。

2014年7月22日火曜日

小石

一昨日は一時間に101mmの大雨が雷と共に降りました。雷が光を放ちものすごい音を立てて近くに落ちるのが聞こえつつ、体は起こさず12時間眠りました。

一夜明けた海の日は晴れ。世の中はもう夏休みまっしぐらです。また弔問のお客様をお迎えして、他に何をやったかわからないうちに一日は過ぎました。

今日は梅雨明け。もうわかってるけど。。。本格的な夏が始まりました。

朝9時を待って地道に電話をかけ、郵便為替を買いに行き、コピーをとったり切手を貼ったり。午前中から出にくかった声がどんどんかすれてきて、電話口で苦労しました。それほどたくさん話したわけでもなく、のどが痛くもないのに声が出にくい。そして胸が重苦しい。

前からのどには小石が詰まってるみたいだったけど、それが胸まで下がったか。
今までとはどこかが違う。しみじみ悲しく、さめざめ泣けてきて途方に暮れてしまう。今までの悲しみや寂しさは動いていて揺れていて。変な言い方だけれど躍動感があった。でも今日の悲しみはどこまでも静かで、透明で、深淵で底がみえない。

母の残したものを片付けるということは、彼女の存在を実感し、思いを受け取り、整理していくこと。私にだけでなく多くの人にかけた思いやりの証拠を見つける度に胸が詰まります。時間に追われ何も考えず、手だけ動かしていたうちはよかったけれど、ここらで感情が追いついてきたかな。幸か不幸か、今はこれが優先順位一番だから逃げるわけにはいきません。

今日は帰国後初めて外で友人たちとあう約束をしています。それまでには小石は砕けるか?飲み放題プランのお店は、梅酒コレクションが有名らしいからそれで溶かす手もありかな。

2014年7月21日月曜日

コワレタ。。。

食欲はあるのに、食べたい物がない。。。この飽食の日本で、今までに感じた事のない空腹感を覚えています。

いつも食べているものを思い出してみるけれど、なんだか美味しそうに思えない。野菜はきれいにパックされすぎていて、果物もなんだか元気に見えない。納豆とご飯と豆腐のお陰で生かされている日々だけれど、納豆パックのゴミを出す度罪悪感。それ以外にも東京生活はどんなに自分ががんばってもプラスチックの包装類と縁を切れない。わが区ではプラスチックも燃えるゴミの分類。それでいいのだろうか。日々些細なことなんだけれどあれ?違うんじゃないの?と思うことの連続で、それは、ここすごい!さすがニッポン、と思うことを追い越しつつあり、ストレスの蓄積を実感。

やっと今日スーパーで手に取ったのはシジミと有機干し芋。地味だけど体には必要な栄養素だったのかも(笑)。

スーパーで立ち往生する自分なんて!いつもは買いすぎないように注意が必要なのに。おなかは空いているんです。食べたいんです。

そうか。。。作る気力が底をついてしまったか。なまじっか添加物とかそういうことを勉強してしまったばっかりに、調理済み製品のラベルを読むと買う気が失せる。腹をくくって断食できればまだましなのに、月のリズムか食欲は殺人的な勢い。そこで結局押し込むものはご飯と納豆とお漬け物とたまに味噌汁。しばらくは自然の流れに任せて、本能を目覚めさせるしかないようです。

2014年7月20日日曜日

夕方

ふふふふ。とある夕方、母が眼をつむったまま静かに笑いました。「なあに〜、今の笑い?」と聞くと「見てたの」と一言。「何を?」「祭壇。全部準備ができました。」と。

夕方は黄泉の国とつながる時間。そんなことを読みました。彼女は病室に居た時から行ったり来たりしていたのかもしれません。亡くなった直後は自分の姿や回りの状況を上空から眺めるとも言いますよね。私はその光景を信じているので天井を見上げたかったのですが、先生たちや看護師さんたちが見守る中、流石にできなかったなあ。

またある時、いきなり「矛盾している」と。これは体が辛かった夜半でした。同じく「なにが?」と聞くと「早くこときれたいのと、みんなと会えなくなるのはいやなのと」と。その数時間後に大出血。都合よく解釈すれば、そのときの辛い体験で矛盾が色あせたかもしれない。出血前と後では何かが変わったなと感じたことを思い出しました。

うわごとの定番は「やだ」と「くやしい」。「どうした〜、何がいや?」と聞くと、「いまいやだって言ったよね〜、でも何がいやなんだろう?」と答えていた母。それがそのうち「もういい」とか「もう十分」「あなたは本当によくやった」と言うようになりました。落ち着いていたかに見えたけれど、当然様々な思いがあったはず。お骨になって2週間、そんなことを考えています。

今日の昼間はいとこの子供たち5人を含む17人の弔問来客がありました。にぎやかな日曜日になってよかったね。

2014年7月19日土曜日

未熟者だからこそ

母を讃えるお言葉を聞き続けた今日この頃。いろいろなことに気がついて、悲し&嬉し涙がでたり、はっと気づきの瞬間があったり、深く考えさせられたり。ある意味、ここまでライフイベントを一貫して味わい、そしてクロージャーに持っていける余裕があることに感謝しています。

今日、また新たな試練の一日を終えました。一つの大きなけじめがついた日でした。

これから母に会いにきてくれる方々は目白押しで、その方達の母を憶う言葉をいただいたり、母と面識がなかった私の友人たちが、もう既に母を知っているような気がする、もっと母の話が聞きたい、素晴らしい人だったのね、と言ってくれる度に嬉しく恥ずかしく誇らしく感じていました。

真実はおそらくいかに私が母から多くを学ばねば生けない未熟者だったからなのだと、腑に落ちたのです。世の中には親が頼りなくて子供がしっかりしている家庭もたくさんあります。だからこそ、皆さんの母を偲び讃える言葉を聞く度に、感謝の気持ちとともに、現世でたくさんの学びの機会を与えてもらっていること、それを昇華することが私が母の娘に産まれて来れた縁なのだとひらめきました。科学的に証明する事なんてできない死後の世界や直感や縁だけれど、それで成長できるきっかけになるのなら信じて行動あるのみ。今は細胞レベルでそう感じています。あとはこの思いと言葉と行動を母のような人に近づける努力、これが日々修行なのですね。

2014年7月18日金曜日

VIPカスタマー待遇

昨日は役所巡りをしました。幸い行くべきオフィスはどこも家から近い。でも待ち時間を心配していました。しか〜し。事前に宿題をやっておいたのもありますが、全て驚く早さで解決。拍子抜けしてしまいました。

ちょっときょろきょろすると、すぐ誰かが声をかけてくれて、この書類のここに記入して何番窓口、今の待ち時間はどのくらいと必要な情報を教えてくれました。

効率性、丁寧な対応はいうことなし。今まで暮らした外国では問い合わせ電話番号に電話しても人間と話せるほうが珍しいくらいなので、大満足。

でもスタッフの多さにはちょっとびっくりしたかな。税金なんですよねえ、皆さんの給料。そして必要な書類、誰も戸籍に残っていないと同じ用途なのに有料になるという制度にもはなはだ疑問が残ったけれど、これも市区町によって制度が違うらしく、隣りの区は請求者の分も有料とのこと。

役所内のカフェは明るくて、スタッフは笑顔が元気な少し障害がある人たちでした。コーヒー休憩して次々と用事を済ませ、テレビ会議での届け出等々も済ませられた効率の良い一日でした。

2014年7月16日水曜日

毎日届く贈りもの

つかれたら眠る。目がさえたら気になることを少しずつやる。こんな生活なので、昨日は整体からもどって7時前にご飯も食べず寝たら起きたのが  12:12 am。役所に行く準備をしたり、お礼状を書いたりしていたら、もう外が明るくなってきました。

母訃報のご挨拶葉書を出してから、多くの方々からお電話を頂いたり、お参りを受けたりしています。

みなさんがそろえて口にするのは驚きの言葉。健康管理をしっかりして、活動的な毎日を過ごしていた母は彼女を知る人全てにとって理想の姿だったようです。
最期も入院生活が一ヶ月、本当につらかったのは数日だったと知って、残念だけれど母らしいと言って下さいます。

女学校時代からのお友達、月一度の巣鴨参りのお仲間達、亡き父とも縁が深い方々、習い事の先生や生徒さん達。こういった方々がたくさんの思い出話をシェアしてくれます。

母は昔も書道を習っていましたが、ペン習字は今年で10年目。最後に行ったクラスで具合が悪くなり、その後検査入院した母を先生はずっと心配して下さっていました。帰国後まもなく月謝をお中元と共に届け入院が長引いている旨を伝えたら、先生は通常年末近くに発行される表彰状を協会にリクエストして前倒ししてもらって記念品と共に病室に届けて下さいました。一昨日は霊前にお参りに来てこんな話をして下さいました。

ある日、教室申し込みのメッセージが留守番電話が年配の方の声で入っていた。特に10年前だったし年配の方は留守電だと切ってしまう人が多かったのでびっくりした。そしてクラスにやってきた母は、6ヶ月前から申し込みをしようと思っていたけれど忙しくて延びてしまったけれど、とても楽しみにしていたのでこれからがんばって通います このお稽古を始めようと思ったのは、今はプールなど運動教室も通えているがいずれ体は衰えるはず。その時でも手は動くだろうから後年でも出来ることを習いたいと意欲に満ちた声で伝えたそうです。なんて好奇心に満ちて積極的に人生を楽しんでいる方だろうと思い、その姿勢は先生(60代半ばくらい )や他の年配の生徒さん達のあこがれだったそうです。

午後1時から7時までやっている教室は、早めは年配の方々、その後小学校低学年からの生徒さんがやってきます。だから午後早いうちはのんびりおしゃべりを楽しむ時間もあり、無口だと思っていた母も結構話していたようでした。
そういえば以前、小学生の男の子に「いくつ〜?」って聞かれたから、「いくつだと思う?」「わかんない」「ぼくはいくつ?」「7歳」「わたしは88歳」「へ〜っ、僕より11倍以上長生きなんだ〜」と言われたと話していました。家で練習はしなかったと自己申告していたけれど、楽しく10年続いたお教室通いで、いろんな出会いがあってよかったね。

昨日は中国体操の教室に体験入学させてもらいました。これは治療に通いだした整骨院が主催している医療保険体操で、しっかり2時間やったらかなりいい汗かきました。母が通っていた火曜日は生徒さんが少なくて、よく先生と二人だけと言うこともあったそう。私より若い美人先生は、母とはなぜかとても気があったそうです。年の差はもちろん開いているけれど、おばあちゃんという感じではなくて人生の先輩として話を聞くのが楽しみで、たくさんの話をしたと。そして一緒にいるだけで心が落ち着いたと言ってくれました。波長が同じで前世できっと深いご縁があったに違いないとも。この先生はチャクラヒーリングや気功もやる方なので、言葉にはできない何かを母との間に感じられていたようです。

そしてさといもこと私の妹分は、母を二度も病院に見舞ってくれました。本人も最愛のお母様を2年前、5年の看病を経て同じ病気で見送っています。当時の食欲もあって顔色もよかった母の完治を心から信じてくれた一人で、私が席を外しているときの母との会話を今もよく話してくれます。私を産んでよかった、私がこんなにやさしい心遣いができる大人になっていて、こうして一緒に過ごせることがどんなに心強くて嬉しいかと話していたこと。いつも帰る前に「さといもちゃん、いつまでもいまここと仲良くしてね」といわれ「こちらこそ」というのが精一杯だったこと。お見舞いに来ているのに帰る頃には、母の笑顔とつつみこむ存在感に自分が癒され、自分のネガティブな感情や悩みが薄れて、前よりも優しい人間になったような気になったこと。

母が私に直接かけてくれた言葉もあります。でも今こうして多くの人達から届く声は、へこたれそうになるときに特に響いてくる。そのタイミングには感服。

さて、今日も暑い一日になりそう。資源ゴミを出して、必要書類を書いて、役所に行って。一回 330円で利用できる区のジムにも行った後に昼寝でもするか。

2014年7月14日月曜日

帳尻

今日はまあそれはそれは蒸し暑い日でした。お暑いですねえ、と挨拶は交わすものの、皆さん「本番はこれからですけどね。」と。果たして私は9月まで大丈夫なのだろうか。すっかりベイエリアの住人になった身としては震え上がっています。

私より恐れているのは 8/6から13まで来ることになったダニー。彼は今まで二度も熱中症になっているので無理もありません。納骨を終えてすぐに九州に分骨した父の墓前にも参ることにしました。今回、田舎の親戚も日帰りで母に会いに来てくれていたのでそのお礼とご報告も兼ねてのことです。

2年前に緑豊かな竹田市に帰ったときのことはブログに書き損ねましたが、それは不思議なソウルジャーニーでした。また今回故郷に帰れるかと思うと不思議で嬉しい気持ちです。今回も前にお世話になった宿でゆっくり休養させてもらいます。

ダニーはこの旅行を複雑な気持ちで迎えるようです。いつもここに来る目的だった母はもういない。そしてこの家もいつまであるのか。此が最期かもしれない、駅に降り立って家のドアを開けてももう母の笑顔を見ることが出来ないと思うと悲しみがあふれると言います。それでも時間は着実に流れ、失った睡眠や食欲や人との関わりも徐々にダニーの、私の日常生活にしみいるように戻りつつある。人間の強さ、図太さ、本能による軌道修正。逆らうこともないけれど、自分の生理ながら、気持ちが着いていくまではぎくしゃくした感をぬぐえません。

今日は延ばしに延ばしていた各事務所への連絡を済ませました。7月を二日間生きてくれた母は、その月の年金や恩給も受給できるとのこと。ナイス!反面、私は5月31日午後4時に成田について、保険料と年金を5月分から納めています。

ま、母ががんばってくれたおかげで帳尻があったというか。そんな風に都合よく考えて笑ってしまった夏日でした。

2014年7月13日日曜日

過ぎ行くとき

限られた親族のみで母を見送って一週間になります。無宗教なのでお通夜もなし。前日に母は会場に入り、私はメイク直しをしました。病院では入れ歯を外すよういわれ、そうするとどうしても口元が若干歪んでしまいます。葬儀担当の方いわく、今は外さなくてもいいといわれ後悔しましたが時既に遅し。しかし安置所に落ち着いた次の日、担当の方が私に言いました「お口もときれいに直されましたね」と。ドライアイスの交換で行ってくださった時には口元がきれいになっていたので、私が面会に行って直したとばかり思っていたと。しかしその日はその方との打ち合わせが面会時間と重なったので安置所には行けませんでした。だから本人ががんばったとしか思えない。会場ではゆがみが全くわからないほどでした。最後までヘアスタイルを気にかけ病人っぽい服装を避けていた母、私なんかよりずっとお洒落心があり、最後まで女性として立派でした。

棺の回りを生花で飾り、それらはすべてお見送りの時に体を包みました。大好きだったユリ、トルコキキョウを主に、あじさい、ばら、旬の花々とグリーン。色白でやせ細る事もなかった母のおだやかな顔は、花に囲まれて乙女のようだったのを思い出します。
昨日は母が最後まで気にかけていた墓地の名義変更や納骨の打ち合わせを終えました。母は初婚で実子は私のみ、父は病気で亡くなった前妻との間に5人の子供がいる(一人は既に他界)ので、私には父を同じくする二人の兄と姉がいます。去年母とアメリカに遊びにきてくれたのは姉二人です。命日となった7月2日はワインカントリーで一日を過ごしました。実はその日の写真を遺影に使いたいと本人も希望していたのですが、解像度が低かったので別の写真を選ぶことになりました。しかしそのときの写真(昨日載せたもの)はご挨拶の葉書に収まりました。いろいろなことをきちんとしたい母らしいなあと思います。

ついでにもう一つエピソードを紹介します。体も気力もキツくなってきた6/30。夕方にカレンダーを見て母は言いました。
母「1月30日」
私「うん、お誕生日だよね?」
母 頷いて「6月30日。ちょうどいい。」
私「何が?(わかってたけど。。。)」
母「1月30日、6月30日。覚えやすくていい。」
私「え〜、それなら7月30日のほうがもっといいよ、丁度半年だし。それまでがんばって」
母 困った笑い顔で「ちょっとそれは長いねえ」

整理整頓が上手で、なんでもきちんとしていた母。その前の辛い日々を含め、もう準備はできているという潔さを感じました。それでも体力はあるし、まだまだ温かい手を握りながら、7月30日を迎えられると私は信じていたのですが。

もう一つ余談ですが、母が整理整頓が上手なのをなんで引き継げなかったのかなあとダニーに漏らしたら「今がいい時だよ、もらいっ子じゃないか聞いてみたら?」と言われたので大笑いして、実際母に聞いてみました。そしたら本人「そんなことないわよ、なんでダニーはそんな事聞けというの?」と真面目にとってしまいました。冗談だよ〜と伝えたら笑いすぎて咳き込んでしまい、ダニーに寿命縮めないでよ!とふたりで抗議(苦笑)しました。

昨夜は母が最後まで気にかけていた懸案事項が片付いたからか、途中で目覚めたものの、通算12時間の睡眠を達成、快挙です!

話は遡りますが、木曜日には母の法名をいただきにお寺にも伺いました。亡き父とのご縁でつながっている桜木町のお寺には、私が海外にいることもあり今後定期的な法要が営めるかわからないと正直にお話ししました。その上で快くお受けくださりほっとしました。
遺影の笑みをよく覚えていてくださったご住職から、自然体で「和顔愛語」の姿を皆に印象づけた母らしい法名をその場で頂戴し、初七日の読経と心温まるお話もいただけて、私一人ではもったいない時間でした。

お見舞いをというご友人もお断りして、全ては事後のご報告で済ませることと強く言われていました。やっとご挨拶の葉書も投函し、徐々に母のご友人たちからも連絡が入る事でしょう。最後まで自分のやり方を通した母。それも回りの負担を軽減するということが第一にあったように感じられてなりません。

最後にダニーとダニーのママが送る会に寄せてくれた言葉を載せます。もともとこのブログは、私の何気ない日常を母に知ってもらうために始めました。その内にいろいろな人が遊びにきてくれるようになり、今は私の中で備忘録だけではない大切なものとなっています。母と私を励ましてくれた全ての人々に感謝の気持ちをこめて。これからもよろしくお願いします。

ダニーより
今日皆さんと一緒にお見送りできなくて残念ですが、四十九日にはご一緒したいと思っています。
この5週間、電話が鳴るたび心臓がどきどきして、メッセージを確認してはほっとしたり心配したりを繰り返していました。そして数日前、ついに恐れていた知らせがやってきました。「お母さんは逝ってしまった」と。
言葉の壁と文化の違いを越えて、私はお母さんのことが大好きになりました。一緒に旅行をしても、いまここが考えたハードスケジュールにお母さんはついてきました。どこでも寝られる特技が助けになったのかもしれません(笑)。お母さんは私たちと同じく美味しいものが大好きで、一流のおせち料理からカリフォルニアでドライブの途中に食べた紙皿いりのクラムチャウダーまで喜んで召し上がりました。お母さんはいつも、とても素敵な優しい笑顔をしていて、これからその笑顔が見られないのが淋しいです。そして何よりも、お母さんの笑い声が聞こえなくなるのがたまらなく淋しいです。

いまこことお母さんは殆ど毎日、スカイプで話をしていました。だからカリフォルニアのわが家では、毎晩お母さんの明るい笑い声が響いていました。これから私たちのそして皆さんの家でも同じように、この笑い声が消えて、少し静かになって、少し幸せが薄れることでしょう。

最近思い出したことがあります。アイルランド語では、誰かが亡くなった時にこういいます。「エア シィリー ナ フィアリンガ」「真実に向かう途中」という意味です。お母さんの「真実への旅路」も、この世界で重ねた数々の旅のように、幸せに満ちたものであるようお祈りしています。

ダニーママより
親愛なるいまここ、本当に残念でしかたありません。私があなたのお母さんをどれほど好きだったかよく知っているでしょう。彼女は本当に特別な人でした。彼女とお知り合いになれて私はとても光栄です。彼女は素晴らしい笑顔をしていて、いつも穏やかで平和に満ちた空気を漂わせていました。彼女ほど回りを優しく安らかな雰囲気に包める人はそういません。あなたに、そしてご家族の皆様に心からお悔やみ申し上げます。

いまここ、あなたが今、親愛なるお母さんが苦しみから解放されていることを喜んであげられていますように。最期の時にあなたは彼女のそばにいて、どれほど安らぎを与え慰めてあげられたことか。この世を去り、次の世界に向かう人に寄り添い助けること以上に、愛に満ちた行為はありません。あなたの家族や友人たちが、あなたのその愛と勇気に満ちた行為を私同様に感謝していることを望みます。

私はあなた宛の手紙もダニーに託しますね。どうかあなたがクリスマスに私たちのもとに帰ってこれますように。沢山のハグがあなたを待っていますよ!
それまでどうかあなた自身を大切にしてください。この大変な時期を乗り越えているあなたはいつも私たちの心の中に、祈りの中にいます。
愛を込めて エイリーン

2014年7月12日土曜日

人一人を一人でおくること

7月2日午前、母は最後の呼吸を終えました。33日の入院生活中、20日は泊まり込みで一緒に時間を過ごせたことは、今となっては何よりの贈り物だったと思えます。

ちょうど一年前は30度を超す気温の中、化石の森を探索し、ワイナリーでテイスティングを楽しんで、沢山笑って沢山食べた一日を過ごしていました。
呼吸器の疾患は夜半が苦しい。これは付き添った経験からも言えることです。当日も朝を迎えられ、また新しい一日のはじまりを喜びました。

数日前から意識がある=息苦しいとなってしまっていた母は、点滴より薬の量を正確にコントロールできる注射器で定量の鎮静剤を注入されていました。効力も個人差があるので、苦しさが増すとその都度微量を注入するというやり方で緩和を続けていました。一見落ち着いたかに見え、少し目を開けたりもできていたものの、もう意識は朦朧としていました。

それでも苦しかった夜を一緒に乗り越えて、梅雨の曇り空の明かりでさへ、私の目には眩しく希望の光に感じられたのを覚えています。

それから急変して最後の呼吸にたどり着くまでそう時間はかかりませんでした。酸素吸入をフルマスクに替え濃度を最高にしてもモニターの数字が上がらず、じきに値が検出されなくなりました。当時の模様はよく覚えていますが、あまりにもあっという間で特に書くこともありません。

早めに家を出た叔母の一人が到着し、もう一人の叔父が到着した所で医師による判断がなされました。日本の病院では何人か親族が揃うまで正式な診断をしないと初めて知りました。

その頃には雲が消え真夏のような晴天。タクシーに飛び乗り着替えを取りに行き、道中葬儀のアレンジをする。何をどうやって乗り切ったのだか。親族はおおかれど、行動と決断は全て私にかかってきて、自分で言うのもなんですがよくなんとかできたものだと思います。病室に戻り、看護師さんと一緒に清拭と着替えを済ませ、メイクも私が施しました。後ほど霊安室で対面した親族が「さすがプロの腕は違うわね」と話しているのを聞いて、何のことかと思えばメークの話。後でプロに直してもらうつもりが、そのままで通すことをすすめられてました。一ヶ月強お世話になった先生方、看護師さんたちもお焼香にきてくれて静かに見送られて病院を後にしました。

人を見送るということは一大事。頭でわかっていてもやっぱり思った以上に大変です。

以前ある事で深く悩んでいた時に、同僚(米人)にいわれたことがあります。「世の中にはもっと大変なことがあるよ、例えば自分の親と別れを告げることとかね」と。確かに、いままでで一番辛い経験で、まだ気持ちの整理はつきません。

葬儀は遺志とおり親族のみで、こよなく愛した沢山の花々に囲まれた花壇葬でした。当日はまた晴天で全てがゆるやかに平和に流れて行きました。母の遺影はダニーと私の結婚式でみなさんをお見送りする写真。口数は少なかったけれどいつも笑顔だった母。亡くなる前も自分がいかに素晴らしい人たちに囲まれ、支えられてきたか。そのお陰で幸せな人生だったと感謝の言葉を絶やしませんでした。それを見送る親族に伝えられて嬉しく思います。
優先順位一位だった母がいなくなって、私もしばらくフォーカスを失いました。自分の事は全くやってこなかったので、食事を作る気力もなく、眠りも一時間毎に目覚めるパターンが身に付いたのか、分断した眠りに疲れがとれることもありませんでした。
病院のパイプベッドの寝泊まりだったので無理もないけれど、腰と首のこりが限界になったので今日、母も通っていた整骨院へ治療に出かけました。天候も悪いし、直ぐ帰るつもりがなぜか母が好きだったという近所のおいしい天ぷら屋さんの話を思い出しました。
ろくな食事をとっていないので天ぷらなんか胃もたれする、整体の後は白湯を飲んでゆっくり休みたいという気持ちとは裏腹に足はお店に向きました。結局特上天丼と冷酒をゆっくり美味しくいただき、もちろん胃がもたれることもありませんでした。思えばアメリカを出て初めてきちんとした食事をとったように思います。
食べ物をムダにすることに心を痛めた母が助けてくれたからか、こうなりました!
始めは病院では何でも半分こしていていました。そのうち私が食べる量がどんどん増えて、やがて母は自分で箸もスプーンも持てなくなりました。体にマヒが出ている訳でもないのに呼吸が苦しい故、食べる事が大好きなのにそれが重労働になる。胃腸は最後まで丈夫だった母にとって、それはどんなに心細かったことか。幸い脳に転移することもなく、意識もはっきりしていて私より薬を飲む時間など正確に覚えていました。それなのに自分で上体を起こしたり、寝返りを打つことさへ息切れが辛くてできなかった。最後まで弱音を吐かず私には何度も「泣いちゃだめ」と言っていた母ですが、心中を察すれば様々な思いがあったに違いありません。

魂は四十九日までは地上近くに居るにしても、今は息苦しさや言い表せないだるさから解放されているのですから喜ばなくては。といっても所詮凡人なので、亡きO氏を見送った時も悲しむのはお門違いと口で言いつつ心はついて行きませんでした。

きっと今より明日、明日より一週間後と確実に悲しみよりこれ以上苦しまなくていい、という安心感に切り替わって行くはず。今は頭でしかわからないけれど、そのうちすとんと心に落ちてくれるような気がします。

まだまだやる事は山積していますが徐々にね。