2014年6月19日木曜日

19日目の熟睡、二十日目の静寂

例年にない大雨が続いたかと思えば、焼け付くような日照り。健常者でも体調を壊すこの季節に病院で過ごせるということはありがたいことなのかもしれません。

日々一喜一憂しながら、帰国して20日が経ちました。

息苦しさを除き一見元気そうに見える母の内部ではどんどん病気が進んでいて、いつどうなってもおかしくないと言われ続けて入院22日目を迎えました。

年齢、体への負担、病巣の状況など分析した結果、効果的な治療方法はなく、緩和治療のみと診断され、救急病院でもある大学病院からは転院を勧められています。いくつか病院を見に行きましたが、希望に沿う場所が空きがなく、もう一カ所は家族が泊まり込めない病院。頭を悩ませていたところ、同じフロアの個室が空いたので13日からそちらに移ることができました。
晴れた日には富士山が見える広い窓がある明るい病室です。

私は折り畳みベッドで泊まりこんでいます。しかし今日、また主治医から転院先の希望を聞かれました。日本式コミュニケーションの難しさを感じつつも、こちらは病院に迷惑にならない程度にこのままこちらでお世話になりたいと伝えました。自分のコントロールできないことはお任せするしかない、難しけれど今一番自分に必要な考え方なのだといい聞かせながら。

夜半に続く咳、出そうで出ない痰、日に三回の吸入と服薬。レントゲンや採血も頻繁で一日があっという間に過ぎて行きます。自分で思ったように歩けないもどかしさ、息苦しさは見ていてつらいけれど、本人は弱音を吐きません。もう少しいろいろ言ってくれた方がありがたいと思いながら、その我慢強さには感服です。

食事時にむせたり、夜中に急に血中酸素の値が下がったりとヒヤヒヤする事も何度かありました。今は右肺が完全に機能を失って、左肺に頼っています。レントゲン写真で右肺が真っ白になったのを見た時はかなりショックでした。それ以前も胸水で下半分は白かったのですが、一面真っ白とは。しかし医師に寄れば、中途半端に機能が弱った肺に血液が流れ、酸素不足のまま体内を巡ると体全体の血中酸素が低下して危篤に陥るとのこと。片肺でも元気な人がいるので、その意味では最悪のつぶれ方は逃れたそうです。今までもそうでしたが、これからより怖いのは感染症。肺炎や出血しているであろう右肺門部から健康な左肺に炎症が広がらないよう見守るしかないようです。

幸いにも本人に痛みはなく、食欲も比較的旺盛です。私の役目はちょっとでも元気になってもらうことなので、いつも喉に小石が詰まっているようで食欲がないのですが、美味しく食べるふりだけは続けています。そのうち美味しくなってくるから、やっぱり食欲の種火が消えることはないのでしょう(笑)。

一時間おきに咳き込む夜が続いた3日目には、意識が朦朧として、全てに腹が立って仕方がありませんでした。

感情に変化があるのは当たり前。最初の2週間は呆然と悲しみがメインだったけれど、ここ数日は、行きどころのない怒りと無力感に頭を抱えました。2月からかかっていた耳鼻科があれほどの咳をただのアレルギーで片付けていたことや、しつこい鼻血がつづくと聞きつつ血痰かもしれない思いつきもしなかった私自身が許せずにいます。話を聞いてくれる友人も親戚もいるけれど、結局彼らも忙しい。実際に頼りにしていた人たちに距離をとったことを言われ絶望と反発心で黒いエネルギーが渦巻いたりもしました。誰もが通る道だけれど今この道を通るのは自分だけ。孤独感と頭の芯がしびれる疲労でとにかく忘れ物ばかりしていました。数日前は印鑑、通帳一式、そしてまとまった現金が入った袋を病院ロビーに置き忘れ、寿命が数年は縮まりました。。。15分はゆうに時間が経っていましたがそのままの状態で椅子にありました。さすがニッポン。

昨晩母が数回の咳だけでゆっくり休むことができたので、私も看護士さんの見回りにも気付かず、6時まで熟睡。それまでは夜9時に折り畳みベッドに倒れ込んでも1時間おきに目が覚めていたのに。

先の事はわからない。でも今日も私はできるだけのことはやりました。いつもより俄然夜更かしだけれど、安らかな母の寝息を聞きながら久々に更新するブログは、今までより一番「いまここ」スピリットに満ちていると思います。

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