2012年3月8日木曜日

眠れない。。。

きゃ〜、明日仕事の締め切りがあるのに、もう午前一時をまわってしまった!

家には無事に10時につき、お弁当の仕込みをしつつ、一缶残っていたギネスを飲みながら、Dといろいろな話をしていました。そのうちにベートーベン交響曲の夕べとなり、今に至る。。。あ、2009 Chateau Julian Cabも開いたんですけどね。まあお酒がおいしいのは健康な証拠である。特にわが家においてはです。

で、おひな様も関係して思い出したことがありました。

本人が読むとわかっていて(元々このブログを始めたきっかけなので)気恥ずかしさもあるのですが、敢えて記します。

私の母は、職業婦人(古い!)でした。戦争経験者、6人妹弟の長女として女学校を卒業してすぐに働きに出て家計を支えて以来、おそらく勤続50年です。大学の経理課に長く勤め、退職した後は別の業界に乞われて経理畑を歩み続けました。その間、一日たりとも病欠したことがないというのですから、驚き!残念ながら私はその頃主流だった粉ミルクで育ったので、その鉄の免疫システム全てを継承する事はありませんでした。父は前妻を病で亡くし、母と再婚しました。母は初婚。私は一人っ子です。兄が三人(一人は既に他界しました)、姉が二人いますが、物心ついた時に一番近い兄は既に大学生。上の姉の子供は私より一つ下。甥姪が5歳と離れていません。ほぼ全員結婚して子供も居ます。もちろん”おばさん”とは呼ばせませんよ!

私の母が働き続けられたのは、「忘れ物の神様」である父の姉(伯母)が私たち家族と一緒に暮らして私の面倒を見ていてくれたからでもあります。その頃の母は、今の私も真っ青の長距離通勤。バス停まで歩いて20分、そこからバスで最寄り駅までさらに20分、そこから満員電車でおそらく1時間弱の通勤だったと思います。夏の夕方、時折、兄と手をつないで竹林を抜けてバス停まで母を迎えに行くのが嬉しくてたまりませんでした。

フルタイムで働きながらも、家の事も気になっていたのでしょう。きっと母は忘れているかもしれませんが、私には忘れられないことがあります。

ある図工の時間に作ろうと思っていたおひな様。思ったように出来ずに焦ってパニックに陥っていた私を寝かしつけた母は、夜通し、代わりにティッシュを丸め、おひな様の頭を作り、和紙で着物を折ってくれていました。寝ろと言われても眠れなかった私は、襖(古き良き日本家屋!)からもれ入る光に母がまだ起きて自分のために時間を使ってくれていると感動しました。私が作った部分をうまく活かしながら、きっと小学生が作ったと疑われない程度に気を抜きながら(笑)作ってくれたおひな様。七段の飾り台は既に私が作っていました。翌朝見事にそれにのった色とりどりのお人形。

学校に持って行ったら、それはしばらく学校の飾り棚に飾られるという名誉をいただきました。はっきりいって複雑な心境ではあります。ずるしたみたい(してるけど)で。

でも飾り棚を見る度、子供心に、いつも家に居てくれないけれど、肝心な時には絶対頼りになるんだよなあ、お母さんは!と誇らしげに思っていました。

わが家は子宝には恵まれませんでした。でも、われわれにとって大切な人たちのいざという時に役に立ちたい。どんどん頼りにしてもらえたらうれしい。そんな風に思います。

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