生死の境を彷徨っていたダニーの友人が亡くなった。ゴルフカートから落ちて頭を打って帰らぬ人となった彼。事故直後は絶望視されていたけれど、昏睡状態でも治療に反応し、僅かながら希望の光が見えてきたところだった。ゴルフ好きだからカートなんて何度も乗っていただろう。楽しいはずの一日が人生最後の日になるなんて、誰も思わなかったに違いない。今、残された家族は、高額な医療費の請求に呆然としている。
そしてこの前の電車の人身事故。残念なことに、あれは事故ではなくて、生きる希望を無くした結果の行為だったそうだ。
どちらのケースも残された人々の気持ちを思うといたたまれない。
後者のケースでは、生かされていることの不思議さに気付くきっかけに出会えていたら。。。健康で、仕事があり、家族も友人もいたその人。無くしたものしか見なくなってしまったその痛みをわかってあげる事はできない。でも、死は求めていたもの与えてくれたのだろうか。
死に答えを求める人とそうでない人の差は何だろう?未だに生きているという事実、その確率や可能性に気付ければ、焦らずともやってくる死に自ら飛び込む人は減るだろう。痛みやつらさの解放が死によりもたらされることはあると思う。闘病生活で苦しんでいた元上司O氏を見送った時は、お疲れさまでしたと言えた。いや、言うしかなかった。でも生かされて、それも健康でいられるのに求めてしまう死は、包み込んでくれるような世界とは思えない。そう思えないことは有り難い。対象を頭で考えずに、感謝の気持ちを持てるようになったのは、私自身そう昔の事ではない。死を選ぶという究極の行為はせずとも、生を真剣に捕らえていなかった。
すべてのことはメッセージ。そう受け止めて日々過ごしていこう。思っては忘れ、無くしては探し、見つけては手放し、気付いては記憶の奥に埋もれさせる。繰り返してはくりかえし。終わりがやってくる頃には、慌てず安らかな気持ちになれるのか。こんな風に思う夜があるのも、今があるからこそ。結局は刻々と移り変わる中での心の持ち様だ、とパズルの完成図は想像できるけれど、実際に最後のピースに行きつくのはいと難し。
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