2013年9月1日日曜日

ARの思い出

楽しい行事が盛りだくさんだった今年の夏。最初に決まっていたイベントはアーカンソーへの旅行でした。高校時代に一年間留学して卒業した学校の同窓会です。留学のきっかけは学校に張り出されていた交換留学プログラムのポスターでした。アメリカに行きたいというより、自分の居場所はどこなんだろう?といった漠然とした気持ちから冒険心が芽生えました。思春期特有と言ってしまえばそれまでですが、あの一年がその後の生活に大きく影響している事は確かです。

反対されるのを心配していたわけでもないけれど、親には選考試験合格後、奨学金も一部もらえることになってから行かせてほしいと相談しました。言いだしたら聞かない私の性格を知る両親は、ドルが200円台半ばだった当時に留学を許してくれました。ホームシックになり戻ってくる学生、地元で命を落とした学生。そんなニュースが入る度に心配もあったでしょうが、私自身は至って元気に10ヶ月後に卒業証書を手にして帰国しました。

電子辞書もウェブもない時代。一行を読むのに何度も辞書を引きながら宿題をこなし、テストを受ける。我ながらよくやったもんです。ヒアリングだって日本語発音で英語を習った身、南部訛りには苦労しました。救いだったのは話す速度がゆっくりだった事かな。

時間割は毎日同じ。1限が英語、2限がParenting, 3限がTAG (Talented and Gifted)、4限がアメリカの歴史、5限が心理学、6限定はバスケットボールでした。卒業するには英語とアメリカの歴史が必須科目で、あとはカウンセラーと相談しながら科目を選びました。アメリカならではの科目がParentingやTAG. ペアレンティングとはその名の通りよき親になるための科目で、家庭科のようなものですが結婚とは?とか家庭内のお金の管理の仕方など実用的なことも学びました。男女の割合は半々位でした。TAGとは成績優秀者のみの選抜クラですが、なぜか留学生である私を受け入れてくれました。自分で選んだテーマで研究発表したり、議題を決めてクリティカルシンキングの練習として様々な切り口で議論したり。これもどうやってついていったんだか大きな謎ですが、TAGと心理学が一番楽しかったです。一番苦労したのは言うまでもなく英語。文法も思ったより点が伸びず落ち込んだり。それでもネイティブの高校三年生とマクベスやハムレットを読むんだから苦労して当然!と割り切ってがんばったのがよかったのかもしれません。バスケットボールのチームは特に強くも弱くもないといったところ。たまには試合に出してもらい、スコアを決めたこともあります。オフシーズンにはソフトボールもやってました。

高校時代の思い出話をもう一つ披露しちゃいます。TAGで一緒だった一学年下のRは、学年トップ10に入る秀才。マーチングバンドのドラムキャプテン。ユーモアたっぷりでいつも笑顔の彼は学校の人気者です。私はその彼に一目惚れ。でも会話もままならない留学生は唯一同じだったTAGクラスで話をする以外、彼との接点はありませんでした。

卒業式を間近に控え、正装で参加する高校生のダンスパーティー、プロムの季節がやってきました。アメリカ高校生活の記念にぜひ行きたいね!とドイツからやってきた留学生のイザベルと話していました。でも女子は誘われるまで待たなくてはいけません。二学年下の友人が誘ってくれたので、彼と一緒に行って楽しめばいいやと気楽に思っていました。

ある夜、キッチンで家族の夕飯を作っていた時のこと。ホストブラザーが「Rから電話だよ」と受話器を渡してくれました。?で満たされた頭で電話に出ると、なんと憧れのRからプロムへのお誘いの電話でした! あの時ゆでていたスパゲッティーのトングを握りしめた嬉しい気持ちを今も新鮮に覚えています。

彼の友人で同じTAGのクラスメートだったTがイザベルを誘って、4人でプロムに出かけました。当日はコサージュを持って迎えにきてくれて、プロム会場に行く前には背伸びして大人のレストランで食事です。あいにくレストランへ行く道を迷ってしまい、ハイウエイで遠くの街まで行ってUターンせざるを得ず、イベントには大幅に遅刻、入場パレードには間に合いませんでした(笑)。でも普段学校と家しか運転しないんだから仕方ないですよね。私としては憧れの君がプロムに誘ってくれたというだけで最高でした〜。

送ってもらう帰り道、「 初めて会った時からあなたの事が気になっていたので、信じられないくらい嬉しかった」と正直な気持ちを伝えました。するとなんと「僕も初めて会った時から君が好きだった。」というとんでもない言葉が彼の口から出てきたのです!!! (ここびっくりマーク三連続許してくださいね)「でも僕はシャイだし、君は人気者でいつもまわりにたくさんの友達がいたから話しかける隙もなかった。勇気を振り絞って誘ってよかった」と。お互い同じ理由で相手に近づけないでいたのがわかり、8ヶ月も待ってしまったね、とビタースイートな大笑いでその夜はサヨナラしました。それから2ヶ月はたくさん話をして、いろんなところに遊びにいって、一緒に勉強しました。そして私の帰国前には指輪と一緒にプロポーズを受けたのです。本人たちは盛り上がっていましたが、周りの大人は至って冷静。子供同士だからね、いずれ冷めるでしょうといった感じで微笑ましく見守ってくれました。実は私も彼の事は大好きだけれど、根本的な価値観が違いすぎると感じていました。育った環境や宗教観がまず違いすぎます。一生のパートナーとして、彼の大切な宗教感を自分の一部に受け入れることができるかどうか。勉強すればいい、考えれば答えは出るというものではないながら、漠然と無理だろうなと感じていました。私は翌年日本で大学に進み、彼は一年遅れて州外の大学へ。その夏に私は日本から会いにいき、そこでも丸二週間を一緒に過ごしました。人間として尊敬するし大好きだけれど、結局別の道にすすむことになるだろうと確信したのはそのときかな。

そんな彼とは手紙のやり取りが続き、その後フェイズアウト。そして私がロンドンに住んで間もなく、10周年の同窓会に行ったことで、共通の友人を介して手紙のやり取りがありました。そして5年前、25年ぶりの再会。私の帰国時に州外の選抜クラス授業に出ていた彼のかわりに見送りにきてくれ彼のご両親にもお会いできました。時を越えての再会。言葉にできないほど感銘深いものがありました。

もう一つ思い出話。5時間目の心理学を教えていたのは年配の厳しい女性の先生でした。いつもしかめ面で早口で話すその先生、初対面で挨拶をしたときいきなり、「Catは日本語でなんというの?」と聞かれ「ネコです」と答えました。会話は以上で終わり。かなり後になって、飼い猫をNekoと名付けたのよと教えてくれました。その名物先生は採点もかなり厳しく、難しい科目でもあったので私はぎりぎりCでパス。

Rは翌年彼女のクラスをとりました。ある時授業中に、先生はこんな話をしたとRから手紙で教えられました。「人種差別。誰にでも経験がある感情だと思うわ。私は第二次世界大戦で大好きな叔父さんをはじめ、親戚を失ってきた。日本という未知の国とその国民にいい様のない憎しみを覚えた。彼らの国も多くの人々が犠牲になったことは置いておいて。ずっとこの憎しみは消えないと思っていた。でもある時、初めてその国の出身の人と出会ったのね。絶対ないと思っていた機会が望まないのに訪れた。その人は普通の人で、普通に家族がいて、笑顔で思いやりに満ちていた。その人と出会って、自分の凝り固まった考えが間違っていた事に気がついた。みんな、私が誰の事を話しているかわかっているでしょう?」

この夏もまたRと彼家族と会うことができました。時間を越えたの人と人とのつながり。「ご縁」という有り難い言葉が日本語にはあるんですね。この一言に尽きる! 

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