2014年7月12日土曜日

人一人を一人でおくること

7月2日午前、母は最後の呼吸を終えました。33日の入院生活中、20日は泊まり込みで一緒に時間を過ごせたことは、今となっては何よりの贈り物だったと思えます。

ちょうど一年前は30度を超す気温の中、化石の森を探索し、ワイナリーでテイスティングを楽しんで、沢山笑って沢山食べた一日を過ごしていました。
呼吸器の疾患は夜半が苦しい。これは付き添った経験からも言えることです。当日も朝を迎えられ、また新しい一日のはじまりを喜びました。

数日前から意識がある=息苦しいとなってしまっていた母は、点滴より薬の量を正確にコントロールできる注射器で定量の鎮静剤を注入されていました。効力も個人差があるので、苦しさが増すとその都度微量を注入するというやり方で緩和を続けていました。一見落ち着いたかに見え、少し目を開けたりもできていたものの、もう意識は朦朧としていました。

それでも苦しかった夜を一緒に乗り越えて、梅雨の曇り空の明かりでさへ、私の目には眩しく希望の光に感じられたのを覚えています。

それから急変して最後の呼吸にたどり着くまでそう時間はかかりませんでした。酸素吸入をフルマスクに替え濃度を最高にしてもモニターの数字が上がらず、じきに値が検出されなくなりました。当時の模様はよく覚えていますが、あまりにもあっという間で特に書くこともありません。

早めに家を出た叔母の一人が到着し、もう一人の叔父が到着した所で医師による判断がなされました。日本の病院では何人か親族が揃うまで正式な診断をしないと初めて知りました。

その頃には雲が消え真夏のような晴天。タクシーに飛び乗り着替えを取りに行き、道中葬儀のアレンジをする。何をどうやって乗り切ったのだか。親族はおおかれど、行動と決断は全て私にかかってきて、自分で言うのもなんですがよくなんとかできたものだと思います。病室に戻り、看護師さんと一緒に清拭と着替えを済ませ、メイクも私が施しました。後ほど霊安室で対面した親族が「さすがプロの腕は違うわね」と話しているのを聞いて、何のことかと思えばメークの話。後でプロに直してもらうつもりが、そのままで通すことをすすめられてました。一ヶ月強お世話になった先生方、看護師さんたちもお焼香にきてくれて静かに見送られて病院を後にしました。

人を見送るということは一大事。頭でわかっていてもやっぱり思った以上に大変です。

以前ある事で深く悩んでいた時に、同僚(米人)にいわれたことがあります。「世の中にはもっと大変なことがあるよ、例えば自分の親と別れを告げることとかね」と。確かに、いままでで一番辛い経験で、まだ気持ちの整理はつきません。

葬儀は遺志とおり親族のみで、こよなく愛した沢山の花々に囲まれた花壇葬でした。当日はまた晴天で全てがゆるやかに平和に流れて行きました。母の遺影はダニーと私の結婚式でみなさんをお見送りする写真。口数は少なかったけれどいつも笑顔だった母。亡くなる前も自分がいかに素晴らしい人たちに囲まれ、支えられてきたか。そのお陰で幸せな人生だったと感謝の言葉を絶やしませんでした。それを見送る親族に伝えられて嬉しく思います。
優先順位一位だった母がいなくなって、私もしばらくフォーカスを失いました。自分の事は全くやってこなかったので、食事を作る気力もなく、眠りも一時間毎に目覚めるパターンが身に付いたのか、分断した眠りに疲れがとれることもありませんでした。
病院のパイプベッドの寝泊まりだったので無理もないけれど、腰と首のこりが限界になったので今日、母も通っていた整骨院へ治療に出かけました。天候も悪いし、直ぐ帰るつもりがなぜか母が好きだったという近所のおいしい天ぷら屋さんの話を思い出しました。
ろくな食事をとっていないので天ぷらなんか胃もたれする、整体の後は白湯を飲んでゆっくり休みたいという気持ちとは裏腹に足はお店に向きました。結局特上天丼と冷酒をゆっくり美味しくいただき、もちろん胃がもたれることもありませんでした。思えばアメリカを出て初めてきちんとした食事をとったように思います。
食べ物をムダにすることに心を痛めた母が助けてくれたからか、こうなりました!
始めは病院では何でも半分こしていていました。そのうち私が食べる量がどんどん増えて、やがて母は自分で箸もスプーンも持てなくなりました。体にマヒが出ている訳でもないのに呼吸が苦しい故、食べる事が大好きなのにそれが重労働になる。胃腸は最後まで丈夫だった母にとって、それはどんなに心細かったことか。幸い脳に転移することもなく、意識もはっきりしていて私より薬を飲む時間など正確に覚えていました。それなのに自分で上体を起こしたり、寝返りを打つことさへ息切れが辛くてできなかった。最後まで弱音を吐かず私には何度も「泣いちゃだめ」と言っていた母ですが、心中を察すれば様々な思いがあったに違いありません。

魂は四十九日までは地上近くに居るにしても、今は息苦しさや言い表せないだるさから解放されているのですから喜ばなくては。といっても所詮凡人なので、亡きO氏を見送った時も悲しむのはお門違いと口で言いつつ心はついて行きませんでした。

きっと今より明日、明日より一週間後と確実に悲しみよりこれ以上苦しまなくていい、という安心感に切り替わって行くはず。今は頭でしかわからないけれど、そのうちすとんと心に落ちてくれるような気がします。

まだまだやる事は山積していますが徐々にね。

4 件のコメント:

  1. いまここさん、私はあなたの個人のメールアドレスなど持っていないのでこんな形でメッセージを送らせてもらうこと、失礼します。お母さまを亡くされたこと、心からお悔やみ申し上げます。大変でしたけれど、最後に一緒に時間を過ごせて、本当によかったですね。

    私は、14年前に母をスキルス性胃癌で亡くしました。56歳でした。分かってから3ヶ月弱の命でした。ご飯をまともに食べられない、味が判らない、というのもよくわかります。

    そして、自分の死を知って、覚悟した彼女と向き合うのは貴重な時間、ではありましたが、今から思い出してもとても辛い時間でした。乗り越える日は来ないでしょう。でも、いつも空を見上げて、母と話をして、前を向いて一生懸命生きてきました。

    私は、父や弟がいましたが、いまここさんはひとり娘さんなのですね。まだまだいろいろなことがあると思いますが、ひとつずつ、ですね。ああ、なんだかうまくいえませんが、どうぞお体お大事に。

    ブログ楽しみにしています。

    返信削除
    返信
    1. Akikoさん、メッセージありがとうございます。Akikoさんのお母様は56歳という若さで旅立たれたのですか。あまりにも早すぎる。。。ご一緒だった三ヶ月はつらい思い出のほうが多かったでしょう。乗り越えられなくて当たり前だと思います。でもそれさへなかったら、と思うと恐ろしくなりませんか。

      私は仕事に人生を献げ親になると思っていなかったという母が40歳で私を産んでくれたこと、そして今まで生きてくれたことに感謝してもしきれません。もう母がいないことにいつ慣れることができるのかはわかりませんが、今ははい、ひとつずつに注力します。これからもよろしくお願いしますね。

      削除
  2. いまここさん、いつもブログは拝見しています。読み逃げばかりでごめんなさい。
    お母様の最後、見守ることはお辛かったでしょう。

    私も2007年に母を103歳寸前で亡くしました。母は私が2歳の時からの育ての母です。
    母より数週間前に東京に住んでいた姉をすい臓がんで亡くしたばかりでした。
    術後で健康状態が思わしくなかった私は姉の時も母のときも駆けつけることが出来ず、当時日本に英語教師として赴任していた息子が代わりに母のところに何度も行ってくれました。今でも最後の時を一緒に過ごせなかったことが心残りです。

    今は大きな喪失感と悲しみの中にいらっしゃることでしょう。
    それでも最後の時を一緒に過ごされたことは本当に良かったと思います。

    どうぞご自愛ください。

    母を亡くして7年目、悲しみが癒えることはありませんが、それ以上に母が与えてくれた深い愛に感謝する日々です。「本当に良く出来たね、貴女が一番」となんにつけても
    常に私を無条件に褒めてくれた(特におとなになってから)母の存在がどれだけ自分に勇気を与えてくれていたか・・・。
    お互いにそんな母の愛を受けられたことは幸せですよね。

    お母様のご冥福を心からお祈り致します。

    返信削除
    返信
    1. Mikkoさん、いつも温かいお言葉をありがとうございます。
      そうですかお母様は100年もMikkoさんと地球での人生を共にして下さったのですね。すばらしい。もちろん今も見守って下さっていることでしょう。ご家族を続けてお見送りするつらさは私の想像に余ります。一度は通る道、いえ、通りたくても通れない人もいるはずで、最期の過ごし方はいろいろあれど、私たちは本当に恵まれていますね。
      私の母は口数が少なく、ほめてくれることは滅多になかったのですが、最期にかけてくれた言葉や、今ご友人達から寄せられるエピソードからいろんな思いが届いています。小出しにして私を勇気づけているのかな?なんて。
      これからもこのブログに遊びに来て下さいね!

      削除