8日前、帰国後初めての外出で26年来の友二人と会いました。頻繁でなくても会えばすぐにくつろげる大切な仲間たち。二人ともお父様を見送っています。母の旅立ちを心から悼んでくれたうえで、それぞれの体験を話してくれました。
その友の一人は、自身も海外出張を続けながら、勇敢に病を受け止め全力で治療を続けています。そのパワーたるやすばらしい。やはり母は強し。
もう一人は児童館の指導員として、下は5歳から上は小学校高学年までが楽しめる教育プログラムを作って自ら指導に当たっています。ゲーム世代の子ども達の興味を惹きつけるのは並大抵ではないらしい。以前は介護世代の相談員も手がけていて、これでゆりかごから墓場まですべての人達の役に立てる職に就くことができたと輝く笑顔で話してくれました。
みんな自分の家庭をしっかり守りながら、生活のためだけにではなく、社会の役に立ちたいと働いている尊敬できる人達です。
昨日は母の四七日でした。特に意識したわけではなかったけれど。朝からふつふつとした寂しさがマックスになったお昼過ぎ、電話が鳴りました。10日前にお参りに来て下さった母の職場の方でした。息子さんの車でいらしたその方は母より7歳ほど年下で、とても上品な言葉遣いで母との思い出を語って下さったのです。朝、なぜかその方の優しい声を思い出していたので心底驚きました。私の体調を気遣ってお電話下さったとのこと。仕事には厳しかった母ですが、部下の女性達のお誕生日には必ずブラウスなどのプレゼントをロッカーに入れてくれたこと、給料日前には時に徹夜でだるまストーブに石炭をくべながら一緒に仕事をしたこと、学長さんや先生方もよく事務室に世間話をしにいらしたこと、学校の銀器コレクションの管理も担っていた母は、教授会のケータリングを富士屋ホテルから調達していたこと、紅一点で上からも下からも慕われていたことなどなど。
ご主人のがんが見つかったとき、遠くの他県でお医者様をしていた息子さんがとるものもとらずに戻ってきてくれたそうです。不平不満を一切もらさなかったご主人が「がんになったおかげで息子が帰ってきてくれた」と涙をみせられたそうです。だから私の母も病には倒れたけれど私が駆けつけたことでどれだけ心強く嬉しく幸せだったことかと。
夜は中高時代の先輩とお会いしました。一年前、彼女も長く患らわれたお父様を見送られたばかり。高校時代一足先に留学した先輩には、出発前にネイティブの会話の先生を紹介してもらったり数々のアドバイスを頂きました。お母様、お父様、妹さんととても仲のよい憧れのご家族でした。父っ子だったという彼女の悲しみは一年経ってもまだ脈打っていて、それでも、最後つらかったお父様を思いやってもういいよ、と思えたと話をして下さいました。ドクターだったお父様が徐々に知っているお父様で無くなっていくのを側で支えるつらさ。それも長い時間をかけて寄り添い見守ってきたご家族の優しさに涙が抑えきれませんでした。お父様の法事が母の納骨と同日同刻、霊園もすぐ側とわかってこの日でよかったんだなあと勝手に思っています。
昨日は母が私にかけてくれた言葉と一言一句同じものを、ご友人から、先輩の口から、改めて聞くことができてどれだけ救われたことか。
凹んでるときに絶妙のタイミングで届くサポートなしにこの28日間を乗り切ることは不可能でした。早く母を安心させたいけれど、まだまだ心配をかけっぱなしのようです。
お会いしてから、もう1ヶ月…お彼岸ですね。日本には、お盆 お彼岸 月命日と亡くなった人を思い出す機会がたくさんありますね。先日、母と妹と共に父の故郷へ一周忌の報告に行きました。母は旅に出る時は必ず小さな入れ物に”父”を入れて出かけます。実はその入れ物には一緒に母の家族も入っています。私は父の祖先の墓を掃除しながら、当たり前ですが自分の命は祖先と繋がっているんだなと。父は生前に故郷に帰ることを”センチメンタル ジャーニー”だと話していました。亡くなった人達と私達との世界にはそんなに隔たりはないのでは…と最近感じます。この夏の108日は”センチメンタル ジャーニー”だったのではないでしょうか。
返信削除コメントありがとうございます。本当に早いものですね。お盆の前に逝ってもうお彼岸。その節は楽しい一夜をありがとうございました。
削除お父様のふるさとへの楽しく素敵な旅の様子を拝見しました。そうですか、お父様もご一緒だったのですね。そのアイデア頂戴して私も母にいろいろな所に一緒に旅に出てもいたくなりました。
私も目に見えなくて触れることができない=つながっていないのではないと気付くことがよくあります。ただ悲しいかな現世の俗人としては自分termsでのつながりが恋しくてなりません。まだまだ学び多しです。