瞑想リトリートに行ってきました。Golden Gate Bridgeを渡って1時間弱北に行ったところにあるSpirit Rock Meditation Centerは、さまざまな瞑想プログラムを提供している団体で、企業や個人の寄付で運営されています。丘に囲まれた自然豊かな敷地内には瞑想ホール、ヨガスタジオ、食堂、宿泊コテージ、事務所、本屋などがあり、落ち着いた雰囲気のなかで瞑想プラクティスに励むことができます。
2年前に参加した友人の話を聞いて以来興味を持っていた今回のプログラムは”People of Color Retreat"(POC)というもの。参加資格は白人以外で抽選での参加になります。それって差別じゃない?と思われるかもしれませんが、通常高価な瞑想合宿を多くの参加者に門戸を広げるという趣旨で始まったそうです。当選した参加者はお布施としてできる範囲での寄付が求められます。約80名の参加者は多くはサンフランシスコやオークランドにある瞑想センターに通っている人たちで、遠くはロンドンから来た人もいました。
到着してすぐに感じたのは、場の空気のやわらかさ。ただ自然豊かな郊外というだけでない、”何か”が確かにそこにはありました。チェックイン時に各自は日々のお勤めの割り振りを受けます。初日は夕食が6時。仕事の説明とトレーニングを受けた後、一切が沈黙となります。
提供される食事は三食とも完全な自然菜食です。朝はオートミールやKamutと呼ばれる小麦の一種にプルーン、無花果、りんごなどをシナモンスティックと煮込んだコンポート、ヨーグルト、ナッツ、新鮮な果物。昼が一番ボリュームがあり、新鮮な野菜と豆のサラダやスープ、スパイスやハーブをふんだんに使ったカレーやドレッシングなど。毎回すばらしくおいしい料理をいただくことができます。初日の夜はレンズ豆をにんじん、玉ねぎ、セロリ、ハーブと煮込んだシチュー、ミントとにんにくが利いたグリーンピースのディップ、焼きたてのパン、ディル・バター、グリーンサラダにローズマリーのドレッシングでした。
初日夜8時に瞑想ホールに集合。八角形の板張りのホールは天井が高く天窓もあり、明るく開放された雰囲気です。正面と背後に仏壇があり、正面の高座には4人の先生が座ります。先生もみな白人以外でネパールで修行したウガンダ人のお坊さん、ハワイ出身で韓国禅宗の修行を受けた日本人、日本人とメキシコ人のハーフで合気道や真剣使いも教えている先生、メキシコ系アメリカ人で世界中のリトリートを廻っている先生など経験もバックグラウンドも豊富な人たちでした。座布団やクッションもいろいろな形のものが用意されていて、自分の座る場所を選んで5日間同じ場所で修行します。
5泊6日の修行はすべて沈黙の中で自分を見つめるものです。5時45分起床、6時15分から45分瞑想、朝食、お勤め、また瞑想。私の仕事はFood Finisherと呼ばれ、ビュッフェスタイルに並べられた食べ物をキッチンに下げ、それぞれの場所に戻したり簡単な洗い物を担当するものでした。
着座瞑想以外にヨガや歩行瞑想の時間があり、夜は一時間先生の講話をいただき、午後9時半就寝です。毎日9時間ほど瞑想していたことなります。その間始終沈黙。瞑想中はもちろん、食べる行為、ドアの開け閉め、一挙一動はすべて注意深く、mindfulnessのなかで行われます。
歩行瞑想とは一歩一歩、呼吸をベースに体の動きや周囲に気を配りつつ、動きながら行う瞑想です。敷地内の遊歩道やトレイルの狭い道で人とすれ違うときも、目はあわせず合掌して譲り合います。山道では鹿の親子にや野生の七面鳥に何度も出会いました。空を見上げれば鷹が大きく弧を描き、鳥のさえずりは一日中穏やかです。
5日間も人と話さないなんて!と驚く人が多いかもしれません。しかし言葉だけがコミュニケーションの手段ではないことを体感しました。自分を外に向けて表現することのない世界。言葉を使わずに互いを尊重しあう空間には自然な安らぎがありました。
疑問・質問は先生やマネジャーに紙に書いてボードに貼れば、すぐに答えが戻ってくるので不便はありません。紙の限られたスペースに書く質問や答えは必然とシンプルで的確なものになります。 グループインタビューと先生と個別面談も行われ疑問に思ったことの教えを受けることができます。
いろいろな発見がありました。あるセッションは集中して短く感じた一方、あるセッションは体の痛みばかりに気を取られました。ある誘導瞑想では、先生が心を空にたとえ、際限なく広がる心からのコミュニケーションは時空を超えると説くのを聞きながら、過去の自分と対話しそのときに感じた痛みを手放すことができました。
つい厳しくなりがちな自分への声。誰もがそんな声を聞いていると思います。「もっとうまくできるでしょ、頑張って!」「また失敗した。どうしてそうなの?」「やっぱりあなたはだめじゃないの」。その声は「あなたならもっとうまくできるはず」という愛の鞭である一方、ありのままの自分を受け入れるというやさしさに欠けています。私はこの声をずっと「コーチ」と呼んでいました。この「コーチ」のおかげで達成できたことは山ほどあります。でもコーチは今まで、「よくやった、それでいいよ」と声をかけてくれたことはありませんでした。今回の体験を通して私は、コーチに心から感謝するとともに、少しお休みを取ってもらうようお願いしました。そして心の中の親友、もう一人の自分の声に耳を澄ませることを学びました。
またMetta瞑想も新たな学びでした。パーリ語のメッタは愛とやさしさと訳され、執着のない無償の愛の分かち合いの実践を説きます。万物の平和、幸せ、安全、健康の祈りをパーリ語で唱えていくうちに、自分自身の変化にも気づいていきます。
「生きる」、という谷川俊太郎の詩を思い出しました。「いま生きていること」は、移り変わる自分や周囲の状態や気持ちを受け止め、認識し、裁きなしに、執着せず、手放すということの繰り返しなんだなぁとあらためて思いました。日常レベルで実践するのは簡単ではありません。考えてみれば、常々"ここでないどこか”や"いまでないいつか”を求めていた自分がいました。そのことに気づいたこと、そしてそれを批判することなく手放すことが大事だとわかったことが最初の一歩で、一番の収穫だったように思います。
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