米作家、Raymond Carver氏の著作の中で、一番好きな短編です。
ある男の人が妻の文通(といってもテープのやりとり)相手である盲目の男性を自宅にゲストとして迎えた夜の話です。日本では村上春樹氏がかなりの作品を翻訳しています。この大聖堂も彼が訳しているようですが、私は原文でしか読んでいません。外国語でこれほどずんっ、と響いた作品はそうありません。出会えてとても幸せです。
カーヴァー氏の作品と村上氏の作品は香りが似ているから、彼が訳すのは自然の流れなのでしょう。私はどちらかと言えば村上氏の短編の方が長編より好きです。カンガルー日和のなかの「チーズケーキのような形をした僕の貧乏」は、こんなに長い題名なのに覚えている(笑)。カーヴァー氏のタイトルのつけかたも独特で長い。たとえば「僕が電話をかけている場所」とか、「愛について語るときに我々の語ること」とか、「ささやかだけど、役に立つこと」とか。長めのタイトルに惹かれるのは個人的趣味かも。江國香織さんのタイトルも大好きです。「泳ぐのに、安全でも適切でもありません」とか「号泣する準備はできていた」とか「思いわずらうことなく愉しく生きよ」なんて寺山修司氏を思い起こさせてぞくぞくします。作品的には神様のボートとか好きだなあ。川上弘美さんも大好き。芋づる式に思考回路は止めどなく広がります。
さて、大聖堂に話を戻します。あらすじとして書いてしまうとなんて事ないのであえて書きません。
なぜそれほど心に残ったのだろう。一晩の経験が人生に忘れられない影響を及ぼすことに感銘をうけたのか。見えるものと見えないものの境目の曖昧さを(いやそもそも境目はあるのか?)考えたからか。見えることが世界を狭めているかもしれないという疑問を感じたからか。読後に無限なるあたたかいものが心を満たしました。いまでもそれは私の心に特別な場所を残してくれています。そういう思いはなにものにも代え難い貴重な体験なので大切にしていきます。
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