2011年8月15日月曜日

終戦記念日に

週末はtasting roomの仕事でした。結構波がありましたが、比較的のんびりした二日間でした。明後日火曜日はお休みのマネジャーの代わりに一人で勤務予定です。はじまりから終わりまで一人で落ちなくカバーできるか。。。そういう時に限って予期せぬ出来事がありそうな予感。いやいかん!これではそのような事態を引き寄せてしまうのですべてがうまく行くとイメトレでもしますか。

今日は仕事後にNご夫妻の家にお呼ばれしました 。N氏は以前ブログにも書いた食のプロ。そして歌に情熱を注げている方です。今日はじめてアカペラの歌を聴かせてもらいましたが、どれも心がこもっているすてきなものでした。しかし彼は自他ともに認める音痴。自信を失いながらもプロから声楽レッスンを受け続け、今も情熱を持って歌を続けています。

日本からのお客様も来ていてにぎやかな宴の中、誰からともなく終戦記念日だねという話になり、その時代の歌をN氏が歌う中、日本を支えてくれた多くの方々に思いを馳せました。

父は戦争体験者です。陸軍士官学校、陸軍大学を経て陸軍中佐となり、航空総軍参謀として終戦を迎えました。マラリヤに苦しみ、肋膜炎を煩い、終戦の大詔は療養所の玄関で聴いたそうです。父は満86歳の誕生日にこの世を後にしました。80歳になる頃「回想八十年」という自伝を書いているので今も文字を通して彼の考えに触れることができます。玉音放送を聞いた日のことを彼は下記のように回想しています。

「私は病床に仰臥しながら、静かに越し方行く末を思い廻らした。そして到達した結論は、今日までと変わりなく天命に従い真っ向から対処して行くことであった。主治医の忠告に従い帰郷療養を決意した。ー中略ー 私は軍人生活18年を回顧した。そして自分の行動に悔いはなかった。自分の仕事には常に全力を尽くして取り組んだ。その評価は神が与えてくれるであろうと信じている。蛇足であるが、一言所懐を述べたい。」

「太平洋戦争の悲惨な終局は開戦時に既に予想されたところであった。それが避けられなかったのが、我が国の宿命である。日本は明治維新により世界に進出し、太平洋戦争の試練により、真に世界の一員となり得たのである。仮に本土決戦が行われたとしても、その結果は明らかで現実に勝ることは絶対になかったであろう。ソ連が北方から本土に侵入し、朝鮮のように南北二分の国土を想定すると、全身の凍る思いである。国家と個人とを問わず、幾度も死線を乗り越えて初めて真の成長発展は遂げられるのである。」

軍人として勝算のない戦争に挑まざるを得なかった心境。田舎の育ちでなまじ勉強ができたため希望の職業を諦め軍人の道を歩んだ人は父だけではなかったはずです。しかし今になってあまりにも自分が父の思いや経験を日本の歩んで来た道、そして今の日本と切り離していたかに気づきました。もっとたくさん話を聞いておけばよかったと悔やんでいないと言えば嘘になります。でも今年はなぜか少し、今までよりお盆、終戦記念日を近く感じています。それが何を意味するのか考えるのはやめにして、蒼い空に浮かぶ白い満月をみています。

0 件のコメント:

コメントを投稿